第六十八話 秘色の鞦韆(ひそくのしゅうせん) 2/4

「マーリン正教会編纂分類図録集補遺」 エルデの言う賢者会分類図録の表向きの正式名称である。

「マーリン正教会編纂分類図録集」とは、一言で説明するならば膨大な博物図鑑である。正教会の長い歴史が築き上げた宝の一つだと言えよう。数千年もの歴史を持つマーリン協会が、コツコツとまとめ上げてきた万物の説明書のようなものなのだ。ヴェリタス内には専門の部署があり、相当な人員を抱えていたとされている。すなわち改変・増筆が随時成されている関係で正確な巻数すら不明なほど増殖している図録集なのだ。まさに叡智の結晶とも言えるものである。

 だがその中には、マーリン正教会の表の代表、すなわち座主が統べる正教会の人間が閲覧できないものも多い。

 正教会として閲覧できる図書は、ある意味で信者であれば閲覧可能である事を意味する。言い換えるならば一般の人間には知られてはまずいものは開示されていないのだ。

 それらは本編に対して「マーリン正教会編纂分類図録集補遺」という名称がつけられて賢者会の蔵書室で管理されていたのだが、いつしか簡略化されて「賢者会分類図録」と呼ばれるようになった。対して通常の図録集は「正教会図録集」と呼ばれる。

 悪用を怖れてか毒草に関する分類図録も表向きには一部しか公開されておらず、ほとんどは賢者会の蔵書室にある「補遺」に含まれるものだ。もちろん本編も補遺も「星の大戦」で焼失あるいは散逸して現存するものはない。

 その賢者会分類図録には項目全てに固有の「型番」が付与されていて、もちろんそれは種や属、科など、一定の法則に則って付けられていたとされている。

 ハーモニーはその図録の法則を知っており、他の安全なものと区別する為に、特殊な毒薬には型番を付記していたのである。

 一般の人間がそれを見ても全く意味のないものだが、賢者会分類図録をよく知る者であれば、その記号の法則が「補遺」の型番に酷似していることに気付くに違いない。

 現にエルデ・ヴァイスは半日も経たぬうちにそれに気付き、おそらくはハーモニー・エッシェの正体にたどり着いてしまっていたのだから。


「心配せんでええ。ウチはなんも見てない。そもそもホラ、なんもないんやから見ようがないしな。ただ寝付けへんかったから興味のある薬草瓶を勝手に拝見してただけ、っちゅうことや」

 自らが消し去った型番の部分をすっと長い人差し指で満足そうにもう一度なぞると、エルデは長い黒髪をなびかせてハーモニーを振り返った。

「ウチはなんも知らん。いや、はじめからなんも知らんかった。それでええやろ? 他にも自分が不用意やなーって思うとこがあったら修正したらええ」

 自分を見つめる黒い瞳の持ち主は微笑を浮かべていた。ハーモニーはそれを穏やかな微笑みだと感じていた。だがそれでもその向こう側、つまりエルデの腹の内がわからなかった。

 自分の正体がばれている事はもはや間違いはない。それはもう疑う余地もないことだ。それでいて「見たことは忘れる」という。つまり「お前の正体は知っている。でも知らなかった事にしてやる」とエルデは言っているのだ。

 そのわけがハーモニーにはわからなかった。

 見過ごすつもりであれば、なぜここを訪れたのか?

 見過ごすつもりであれば、なぜ皆が寝静まった夜中に家捜しまでして「正体」を特定する証拠探しをおこなったのか。


 ハーモニーはこの時点でエルデ達はそもそも自分を訪ねて来たのだと決めつけていた。彼女の思考ではそうでなければ辻褄が合わないからだ。

(それに……)

 ハーモニーはその段になってようやく重要な符合に気付いた。

(「始末屋」が男女二人組だという噂は本当だったのだ)

 ハーモニーがヴェリタスから逃亡する際、自分を追ってくる可能性のある「敵」については当然ながら調べ尽くしていた。だが得られた情報と言えば「始末屋」という漠然とした名前と、その役目を負うものが三聖直属の一席もしくは次席という上位の席次にある賢者で、男女二人組である「かもしれない」という程度のものだった。もちろん始末屋の事を嗅ぎ回っている事が知れればそれだけで目を付けられる。従って情報収集といってもたいした事ができず、得られた情報の信憑性を検証する事を自ら放棄していたきらいがあった。

 だが今、その「噂」が俄然真実味を帯びている。いや、真実であったとハーモニーは断定していた。

 瞳髪黒色の二人組の賢者。エイルとエルデはまさにそのものではないか、と。

 だからハーモニーは、エルデがどれだけ穏やかに微笑みかけようと、その強ばった顔を解(ほぐ)せなかった。


 そんなハーモニーに、エルデは声をかけた。

「これは興味本位やけど、一応名前を教えてくれるか? もちろん賢者の名前や」

 ハーモニーは思わず拳を握り締めた。唇を噛んでいるのももはや隠しようがなかった。それはつまり相手の言うことが正しい事を示していた。

 もっともハーモニー自信も、もはや言い逃れはできない事はわかっていた。相手は既に「断定」しているのだ。それに抗う事はただの時間の無駄であろう。いや、その無駄さえ許しはしないだろう。

「心配はいらん。ウチの人はまだ眠っている。ちゅーか、この家全体に睡眠の範囲ルーンをかけてるからあの毛むくじゃらの熊みたいなおっちゃんも眠ったままや。そやからこの会話はウチとハーモニー、あんたの二人だけの秘密や」

 沈黙したままのハーモニーに、エルデがさらにそう声をかけると、足元で黒猫が小さく鳴いた。

「おっと。そやな。お前がおったな」

 そう言って黒猫を見るエルデの視線が妙に厳しいものになったのをハーモニーは漠然と感じていたが、すぐにそんな些末な事は頭から離れていた。

「大丈夫や。この化け猫も秘密は守るそうや。そやな?」

 エルデの呼びかけに黒猫は小さく鳴いて応えた。その様子はまるで会話をしているように見えた。だがハーモニーはそれには全く不信感を抱かなかった。よほど飼い主に懐いている猫だという程度の認識である。それよりもエルデが猫に対して「化け猫」と呼びかけた事の方が不思議だと感じていたのだ。

「そういう事やから、今までの話も誰にも聞かれてへんし、ついでに言うとくとあんたの正体をウチの人に知らせるつもりもない。それは賢者として約束しとく」

 そう言うと、エルデは額を覆っていた黒い包帯を解き、真っ赤な第三の目をハーモニーに晒した。賢者としての約束という言葉に重みを加えて見せたのだ。

 ハーモニーは観念する事にした。

 いや、ハーモニーにはもはや選択肢は残されていないのだ。「始末屋」に見つかった以上、逃げるか、従うかしかない。だが既に特定されている以上逃げる術、いや余地など全くない事は明白であろう。ならばここは従うしかないのだ。


「私は【秘色の鞦韆(ひそくのしゅうせん)】。賢者会の末席を汚すものでございます」

 ハーモニーは目を閉じてそう言うと、自らも額に第三の目を出現させた。

「【秘色の鞦韆】やて?」

 エルデはハーモニーが名乗った賢者の名を聞くと、怪訝な表情を浮かべ、やがて眉間に皺を寄せた。だが、やがてゆっくりとその表情を緩めると、一言「そうか」とつぶやいた。

「弁明を」

 エルデの表情の変化に不穏な物を感じたのか、ハーモニーは思わずそう言ってすがった。だがエルデは手を挙げてそれを制した。

「勘違いしたらあかん。ウチは始末屋やない。ただの通りすがりの旅人や」

 この期に及んでも自らの正体を告げないエルデの態度に不信感を抱きながらも、ハーモニーは今しかないとばかりに釈明を続けた。


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