第六十七話 小さな気合い 3/3

 物音に気付いて目が覚めたわけではなかった。

 ハーモニーはベッドに横たわったままで全ての感覚を耳に集中するかのごとく、じっと家の様子をうかがった。

 当たりは真っ暗で、夜明けまでにはまだ間がある時間帯である事は感覚的にわかっていた。

 音はしない。

 だが誰かが家の中を徘徊している事は間違いなかった。

 気配があまりに強いのだ。

 誰かが夜中に手洗いに行くことはあるだろう。喉が渇いて水が飲みたくなってもおかしい事ではない。

 各部屋には水差しを渡してあったが、それが空になれば補充が必要であろう。

 だが気配の主はそんな単純な行動をとっているわけではなかった。家の中を隈無く調べ回っているような、そんな気配なのだ。

 ハーモニーはベッドの音を立てぬように注意深く上体を起こすと、素足のままでゆっくりと部屋の扉に近づいた。

 気配の主の正体はわかっていた。

 フィンマルケンはそんな事はしないだろう。瞳髪黒色のエイルという名の少年でもない。その二人とは気配が根本的に違うのだ。

 そう。その忘れようのない強い気配はあのエルデという娘のものだった。


(何をしている?)

 ハーモニーは扉に耳をあてた。だが、もとより気配は音を立てているわけではないから、足音などが聞こえる道理はない。

 気配が異動している事はわかる。ハーモニーにはその程度の感知力がある。だが何をやっているのかは見当もつかない。

 様子からして何かを探しているのだろうと言う推理は成り立つ。だが大金を持っているエルデが金目の物を家捜ししているとは思えない。

 ならば何を?

 ハーモニーは脈が速くなるのを自覚していた。さらに暑くもないのに額には汗さえ浮かんできた。まるで不安と恐怖が一度に血管の中に流れ込み、濁流として駆け巡っているようだった。よく見れば指先が震えてもいる。

 ハーモニーはもちろん徘徊の主……彼女はそれがエルデだと決めつけている……が何をやっているのかを確認したわけではない。だが恐怖に支配されたハーモニーに、もはや普段の冷静な分析能力はなかった。

 追われる身ならではの自己保存本能がそうさせるのか、そして持って生まれた疑り深い性格がそれに拍車をかけているのか、ハーモニーにはそんな自問をする余裕すらなくなっていた。


(やっぱり三聖の手の者だったのだ)

 恐怖と疑惑が導き出した答えがそれだった。

 現名(うつしな)であるハーモニー・エッシェは、もちろん偽名である。それはもちろん偽名を名乗る必要から産み出されたものだ。もっとも「迷いの森」の住民のいったいどれほどが「本当の名前」を名乗っているのかを想像してみればいい。ハーモニーが偽名であろうがそれは大した問題ではないと思えるはずだ。そもそもそんな事は森の住民にとって「暗黙の了解」であり、現に「運び屋」フィンマルケン・ノールでさえ、ハーモニー・エッシェという名前が本名などとはつゆほども思っていなかった。

「迷いの森」の住民の多くがそうであるように、自分の目の前の人間に呼びかける名前がある事自体が重要なのだ。その名前がたとえ偽名であろうが無かろうが、目の前にいる人を特定するものであればいい。その名を呼んで、それに応えてくれるのならばそれはもうその人の名前なのだ。

 だが、本名を唯一の名前として捉える事しかしない人間も確実に存在する。ハーモニーが今怖れているのはそんな種類の連中の一つであった。


 ハーモニーは長時間に於ける高い鼓動に耐える事になった。それというのもどうしていいかわからなかったからだ。撃つべき手段を思いつかなかったと言い換えてもいい。

 部屋から飛び出し、その「相手」と戦う事は極めてたやすい事だった。だがその直後に自らの人生が潰える事は、よりたやすく想像できた。

 恐怖に支配されながらも、ハーモニーは自らとエルデの能力の圧倒的な差を理解していたからだ。

「気配」はしばらく部屋の中を移動していたが、やがて動かなくなった。ハーモニーが若い夫婦にあてがった部屋に戻ったわけではない。確実にその気配が居間にいて、動きを止めた。つまりそれは何かを見つけ出した事を示唆している。

 留まっている確実な場所まではわからなかった。さすがにハーモニーではそこまでの解析能力はない。

(何を見つけた?)

 ハーモニーは今度は自らの正体に繋がる「痕跡」が果たして居間にあったかどうかを大いに悩む事になった。

 痕跡はほとんど消し去っているはずであった。ハーモニーの不安の種はもちろん、「完全に」と言い切れない所にある。

 正体を示すもの……そうハーモニーが自覚している「もの」はもはや皆無であったはずである。唯一の証拠は肌身離さず持っている。それは決定的なものだが、本人がここに居る以上、エルデに見つかるはずはない。そして「それ」以外は全て処分が終わっているはずなのだ。

 ここでもハーモニーは「はず」という曖昧な言葉を持ち出さざるを得なかった。見落としがある可能性を捨てきれずに居たからである。

 いきおいハーモニーはこの地に流れ着いてからの証拠隠滅の記憶を辿る事になった。常人の常識に照らす限り、並外れた記憶力を持つハーモニーは自らの証拠隠滅行動を全て覚えている「はず」なのだ。

 無意識に心臓の上に手を当て、ハーモニーは記憶を辿る作業に入った。あるものは焼却し、あるものは土に返した。そしてその作業は周りに誰も居ない状況下で行ったものだ。

(大丈夫だ。奴らに見つかるはずがない)

 それは時間にして数分であろうか。ハーモニーは念には念を入れて同じ記憶を三度辿り、ようやく自分の仕事に自信を持てるようになった。

 そしてそれは多少ではあるが、冷静さを取り戻す助力となった。


 気がつけば闇は薄暮に取って代わられていた。部屋の上にある小さな明かり取りが朝の訪れを告げている。

 ハーモニーは意を決すると、ベッドの脇にある小さな窓に歩み寄り、わざと音を立ててカーテンを引き、ガタガタと言わせて鎧戸を開け放った。

 そのまま姿見の前に異動して髪に乱れがない事を確かめると、逸る気持ちを抑え、念のために簡単に櫛を通して寝間着を部屋着に着替えた。


 ハーモニーが出した結論は極めて合理的なものだった。

「しらばっくれる」

 これである。

 偽装工作は完璧なのだ。ならば「普通」にしていればいい。

 そもそも「敵」が完璧な証拠を掴んで乗り込んできたのであれば有無を言わせず出会った時に「それ」はおわっているはずなのだ。たとえ怪しまれているとしても三聖の立ち位置は「疑わしきは罰せず」のはずなのだ。言い換えれば「決めつけられたら無罪であっても断罪される」のではあるが。

 探られていても尻尾を出さなければそれで済むはずである。

 それに……。


「今日は仕事の日だ」

 ハーモニーは鏡の中の自分にそう声をかけた。

 おあつらえ向きにその日は仕事の依頼を受けていた。久しぶりに隣の集落で婚儀が行われる為、「虹屋」として呼ばれていたのだ。行き帰りはフィンマルケンの馬車に乗せてもらう予定になっていた。

 フィンマルケンの馬車は「迷いの森」仕様だ。つまりかなり小振りで大人は二人しか乗れない。要するにごく自然にエルデ達とは離れる事ができるのだ。

 その間に「手」を考える事ができるだろう。冷静にじっくりと考える時間が手に入る。なんなら一芝居打って死んでみるのもいいだろう。

 迷いの森であれば賊に襲われて死ぬなど日常茶飯事だ。

 人のいいフィンマルケンを騙すことも簡単に違いない。多少のケガをさせる事になるかもしれないが、偽装に信憑性を与える為だ。背に腹は代えられない。それよりもわだかまりがあるとすれば、もしその手段を講じることになると、人の良さそうな髭面の運び屋とはもう会えなくなる事だろう。こんな自分を抱きしめて、そして求婚してくれるような、人を見る目のない「お人好し」と。

 

 ハーモニーは鏡の中にいる自分の顔を見て思わず小さな笑いをこぼした。

 それは何とも言えない寂しい笑いだと、自分でも思った。

 鏡の中のハーモニ・エッシェという女は、頬を染め、あろう事か目頭に涙を溜めていた。そんな自分の顔をみて愚かな女だと心から思ったのだ。そしてそれに対して無意識に笑いが出た。

 普通の女なら普通に出す感情であろう。だがハーモニーはそれを愚かしいとか思えない人間なのだ。

(こんな寂しいことがあろうか)

 二重の寂しさに、唇が歪む。

 だが、ハーモニーはそれでも生きたかった。生に執着があるのだ。いや、生きたいと思うのではなく、「死んでたまるか」という思いが強いのだ。


「よし」

 小さな気合いと共に、ハーモニーは部屋の扉を開けた。

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