第六十六話 証拠の指輪 3/3

 エイルはもう何百回ついたかわからないため息をつくと、こちらももう何杯目かわからない紅茶のカップを手に取った。エイルが取るべき選択肢はそれしかなかった。とりあえず間を持たすには紅茶を飲むしかなかったのだ。

 エイルはチラリと振り返り、クロネコに恨めしさの籠もった眼差しを向けたが、セッカはそんなエイルなどどこ吹く風で、気持ちよさそうな顔で猫然としてエルデの足元で丸まっていた。

 もっともエイルはセッカに助けを求めるわけにはいかない。ここにきてさらに「言葉をしゃべる猫」が登場したらもはや収拾が付かなくなるのは火を見るより明らかだった。


 エイルはこの終わりなき闘いになんとか突破口がないものかと思案を巡らせていた。

 一つだけあるにはあった。だがそれを尋ねていいものかどうかを迷っていたのである。だが、目の前のフィンマルケンが時折りハーモニーに注ぐある種の眼差しを見て、敢えて踏み込むことを決心した。


「あの」

「何?」

「何だ?」

 エイルの問いかけに食いつくように、二人が同時に答えた。こちらの話を聞く態勢があるという意思表示だ。エイルにとっては二人ともそうなったのは好都合だった。

「実はここに来てずっと気になっていて、聞きたい事があるんですが」

 エイルは二人を交互に見つめながらそう切り出した。

「何だ?」

「何?」

 再び同時に反応があった。

「お二人はその……どういう関係なんですか?」

 エイルの質問は功を奏した。二人は質問を中断してお互いに顔を見合わせた。

「関係なんてないよ。運び屋と依頼主。それだけさね」

 一瞬の間を置いてハーモニーが先に答えた。

 エイルはしかし、その一瞬の間でハーモニーの表情が変化したのを見逃さなかった。

「そうなんですか?」

 だから確認の問いはフィンマルケンに投げる事にした。

「今現在での状況が、運び屋と依頼主っていう関係には違いないが」

 フィンマルケンは苦笑してそう言うとあたまを掻いた。

「俺としちゃあ、それ以上の関係を望んでるのに、色よい返事がいっこうにもらえない状況……っていえばわかってもらえるか?」

「よ、余計な事を言ってるんじゃないよ、この髭面!」

 フィンマルケンの言葉にハーモニーはあっと言う間に頬を染めていきなり席を立ち、テーブルのティーポットをひったくるようにしてかまどのある台所へ消えた。


「俺が見たところ、まったく望みがないってわけでもないと思ってるんだが、エイルから見て、どうだ?」

 一緒にハーモニーの後ろ姿を見送っていたエイルに、フィンマルケンは尋ねた。

 エイルはうなずいた。

「オレもそう思います」

 同感だった。気が無いわけではないのは、この手の事に経験が少ないエイルの目にも明らかだと思えた。

「断られる理由が何かあるんですか?」

 それはほとんど核心だとは思いつつも、回りくどい会話のやりとりを楽しむ相手ではないと判断したエイルは、率直な疑問をぶつけてみた。

「まあ具体的な話をすると、一度婚儀を申し込んではいるんだ」

「へえ。で、断られたんですか?」

「エイル、お前さんは聞きにくいことをハッキリ聞くヤツだな」

「いや、まあ。はっきり言わないと、その、叱られますんで」

「なるほどなるほど」

 エルデに視線を移したフィンマルケンは納得したとばかりに深くうなずいた。

 二度。

(いや、そこまで納得しなくてもいいんだが)

 エイルは心の中で苦笑した。エルデとは心と心で通い合っていると思っていたからだ。そもそも最初は心の中で会話をしていたのだから。


「まあ、何だ。俺には、断られた理由がわからない」

 フィンマルケンによると、理由を尋ねたところ、ハーモニーが口にしたものはどれもこれも嘘だという。

「まず別な男の気配はない。これはカンでしかないがそう言うところはわかるものさ」

 その他の理由としてハーモニーが挙げてみせたのは次のようなものだったという。

「髭が気にくわない」

「男に興味がない」

「仕事が忙しい」

「運び屋は嫌いだ」

「一人が性に合ってる」

 挙げ句の果てに

「母親の遺言」など。

 確かにどれも決定的な理由としては決め手に欠ける、いや説得力が弱いとエイルも感じた。


「というか、何回婚儀を申し込んだんですか? さっきは一度って言ってましたよね」

「あれは見栄だ」

「見栄って……」

「笑うなよ? 実は遭う度に申し込んでる」

 エイルはさすがに呆れたような顔を隠せなかった。

「そりゃまた……何というか、へこたれませんねえ」

「俺は納得のいかない仕事はしない主義なんでな」

 納得のいく理由を聞かせてもらえるまでは引き下がらないのだという。

「今の関係が心地良いから、という理由はどうです?」

 エイルは思いついた言葉を口にした。その気持ちはわからないこともないからだ。お互いにそれ以上踏み込まない方がいいという一線を引く。その線から出ずに楽しくやって行ければ自分が傷つかない。そんな事を考える人は多いに違いない。かく言うエイル、いやマーヤ・タダスノという名の少年はフォウではそうやって生きていた。それは心地良いという言葉で表す気持ちとは少し意味あいが異なるのだが……。


【それか、相手がホンマに好きで、大事に思ってるか、やな】

 突然だった。

 エイルの頭の中に自分とは全く別の意識が言葉を発した。


「どうした、エイル?」

 反射的に席を立ったエイルを見て、フィンマルケンが驚いて声をかけた。

「何、どうし……

 ちょうどお茶を入れ替えて戻ってきたハーモニーはエイルの顔を見て、言いかけた言葉を途中で止めた。その代わりにもう一人の客に怒気を含んだ視線を向けた。

「どうしちゃったのよ、フィン。あんたこの子を泣かせたの?」

「いやいや、俺も驚いてるんだ、いきなり立ち上がって泣き出したんだよ」


 エイルは自覚しては居なかった。

 だが視界がぼやけているのは確かだった。頬に熱いものが流れているのもようやく感じだした。

【まったく。ウチの夫は泣き虫で困るわ、ホンマ】

『お前が言うな』

【ウチは泣いた事あらへんし。というか、とりあえず座ろ? 変に思われへんように普通に振る舞うんや】

『言いたい事がある』

【後で聞くさかい、とりあえずは落ち着いて、そんで現状報告や。ここはどこで、目の前の髭とおっかないお姉ちゃんは何もんや?】


「すみません」

 エイルはそう言うと涙を拭ってゆっくりと席に着いた。

「あいつがもうすぐ目を覚ますんです。だからちょっと胸が一杯になったって言うか」

 ハーモニーとフィンマルケンは再び顔を見合わせた。

「なんでそんな事がわかるの?」

「わかりますよ」

 エイルはハーモニーにそう答えると長椅子に横たわるエルデを振り返った。

「だって、オレ達は夫婦なんですから」


【は……】

『ん?』

【恥ずかしいこと言いなや!】

『オレは恥ずかしくない』

【ウチはなんか恥ずかしい!】


「うわあ、言ったよこの子。普通こんな恥ずかしい事言えないわ」

 ハーモニーは肩をすくめたが、フィンマルケンはポンと両手を打った。

「いや、エッシェさん、コイツの言うとおりですよ。いい夫婦ってのはそう言うもんなんだ」

「なによ、フィン。あんたまさかこの子の言うこと信じてるの?」

「もちろん」

 フィンマルケンはそう言うと、真顔になってハーモニーに対峙した。

「あなたとなら俺もそんな夫婦になれると信じている。だから改めてお願いする。結婚して下さい、ハーモニーさん」

「ちょっ!」

 フィンマルケンはいきなり婚儀の申し込みを口にすると、返事を待たずにそのままハーモニーを抱きしめた。ポットを持ったままのハーモニーは下手に動けないのか軽い批難の声を上げたが、大きく抗うことはしない。


【え?】

『うわあ』


 それを見ればエイルにもハーモニーがフィンマルケンを嫌悪していない事がわかった。それどころか瞬間的に沸騰したように真っ赤になったハーモニーの顔を見れば、多少なりともフィンマルケンに好意があるのは明らかだ。


【うーん】

 そんな二人の抱擁を見たエルデが唸るような声を出した。

『どうした?』

【外から見たら、ウチらもああ見えるんかな、って思ったら、今さらながらやけどちょっと恥ずかしゅうなった】

 エイルは嬉しさに加え、こみ上げる笑いを堪えるのに苦労しながら答えた。

『大丈夫だ。全然違うって』

【せやろか?】

『ああ。あんなもんじゃないぞ。オレ達はたぶんもっと甘々でベタベタだ』

【えええええー?】


 エルデの叫び声が一切聞こえないハーモニーは、その後いくら経っても離そうとしないフィンマルケンをようやくの事で押しのけると罵声を浴びせ、頑丈そうな胸板を一度小突いて見せた。ただ、その拳にたいした力が込められていない事はフィンマルケンの表情を見るまでもなく、その軽すぎる音でそれと知れた。

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