第六十六話 証拠の指輪 1/3

 長椅子に横たわる瞳髪黒色の美少女の額にあるもの。

 固く閉じてはいるが、それは「目」以外の何ものでもなかった。

 ハーモニーは一目でそれが何かを理解した。エイルという名の少年にその第三の目が何を意味するのかを尋ねる必要もなかった。なぜなら彼女は「それ」が何の意味を持っているのかをよく知っていたからだ。

 だからその場で素っ頓狂な声を上げたのはハーモニーではなく、事情を一切知らぬフィンマルケンであった。


「賢者だってえ?」

 ほとんど裏返るような叫びと共に椅子を蹴って立ち上がったフィンマルケンは、その目で確かに見た。

 人にはあってはならぬ「もの」を。

 そして思わずある言葉が口を突く。

「化けも……」

「化け物じゃない!」

 フィンマルケンの言葉を、エイルの叫びが貫くようにさえぎった。だがその直後にエイルは、その声の調子を極端に落としてすぐに付け加えた。

「すみません」


 言葉では謝った。

 だがそれはいきなり怒鳴ったことに対してであって、内容についてではなかった。だから彼は誤解を招かぬようにさらに説明を付加する必要に迫られることになった。

「怒鳴ったのはオレが悪かったです。でも、頼むからコイツを化け物って言わないでくれ。エルデはオレの大切な『人』なんだ」

 エイルはそう言うとよろよろとした足取りで長椅子に近づき、そこに横たわる若い妻の額をそっと撫でてやった。


「本物……なのか?」

 フィンマルケンが唾を飲み込む音が聞こえるほど、居間は静まりかえっていた。

「賢者の噂の一つや二つ、聞いたことはあるでしょ?」

 叫んだのはあの一瞬だけで、エイルの声は実に落ち着いていた。

「見ての通りです。噂じゃないって事ですよ」

 エイルはそう言うと、視線をゆっくりとエルデからフィンマルケンに移した。

「念のために言っておきますが、オレは賢者でもルーナーでもなくて、一般人です」

 エイルの言葉に返す言葉が見つからないフィンマルケンは、ただ頷いてみせるだけであった。


「まったく」

 のろのろと立ち上がったハーモニーは、自分の椅子に戻ると、テーブルに肘を突いて頭を抱えた。

「とんでもない面倒ごとを持ち込んでくれたものね、フィン」

 地底から湧き上がるような、そう、まるで呪詛のような言葉に、フィンマルケンは慌てて反応した。

「いや……まさか賢者様だとは知らなかったんだ」

 フィンマルケンの言葉を受け、ハーモニーは大きなため息をついてみせた。

「そりゃそうよね」

 フィンマルケンはうなずく。もっともハーモニーはうつむいたままでそんなフィンマルケンの態度が見えてはいないのだが……。


「ねえ。あんた、エイル君だっけ?」

 ゆっくりと顔を上げたハーモニーの言葉にあからさまな嫌悪の色が乗っているのをエイルは感じていた。だがあえてそれを無視して呼びかけに応じた。

「ええ、そうです」

「あんた達、やっぱり駆け落ちなんでしょ? 賢者会から追われてるんだ」

 その問いかけに、エイルの眉がピクリと反応した。だがエルデの顔をのぞき込んでいる彼の表情はハーモニーにはわからなかった。

「違います。オレ達は何もやましいことはしていないし、本当に正教会がらみでこの森に入り込んだわけじゃないんです」

「証拠は?」

「え?」

 思いもしない質問に、エイルは思わずハーモニーを振り返った。


「あんた達が正教会から追われてないっていう証拠は?」

 エイルはそこに、自分をにらみ据えるデュナンの女の鬼気迫る表情を見つけた。

 証拠と言われてもそんなものはない。それはハーモニーとてわかっているはずだ。なのになぜそんな無理難題を言うのか?

 エイルは助け船を期待してフィンマルケンを見たが、彼はエイルの視線を避けるようにそっぽを向いた。

 エルデの異形ぶりに、よほど怯えてしまったのだろう。だがそれは無理もない事だとエイルは思った。自分がフィンマルケンの立場であれば同じ態度を取っただろう。いや、自分の方がより過剰な反応をしたに違いないと確信していた。

 ファランドールの住民としての時間は短いものの、「三眼」が賢者の徴として広く知られていることをエイルは既に知っていた。同時に魔物や化け物、魑魅魍魎といった類のものと同列に騙られることはほとんど無い。少なくともエイルは聞いた事がなかった。それがフォウとまったく違うところだった。フォウでは三眼は多くの場合、魔と同義なのだ。フィンマルケンが思わず「化け物」という言葉を口にしたが、それは「正常」に対する「異常」という言葉を置き換えただけなのだ。人とは明らかに違うものに対する怯えを言葉にしただけのもので、エイルが三眼に対して深層心理に持っている嫌悪を伴うそれとは同じ恐怖でもまったく別種の感情なのだ。


「証拠はないです」

 エイルはそう言うと肩を落とした。

「オレ達は正教会とはまったく関係の無い事情で動いてるんです。オレ達にはもともと別の目的地があって、当初はそこへ行くための近道になると思ってこの森を突っ切る事を決めたんです」

「どこに行くつもりだったの?」

「船に乗る必要があって、ウンディーネ連邦の東海岸に出るつもりでした」

「わざわざこんな所を通らずに、安全な迂回路を通ればいいじゃない」

 ハーモニーの指摘はもっともだった。むしろエイルの今の言葉は警戒心を強くしたようなものだ。

 エイルはうなずいた。

「オレ達も最初にそれを考えました。でも迂回する街道を選ぶと戦争の影響が避けられないというか……軍関係に目を付けられると面倒なんです」

 エイルはそう言うと表情を緩めてエルデを見つめた。

「普段は隠せるんですが、ご覧の通り無意識下でも三眼が出たままになってしまってて」

 エイルの言葉にハーモニーが反応した。眉をピクリと上げるとエイルに倣うようにエルデに視線をやった。

「戻せないって、どこか具合が悪いの?」

 エイルはうなずいた。

「理由はそいつにもわからないみたいなんですが、ある時からずっと……」

「ある時?」

 エイルはそこで言葉に詰まった。


「まあいいわ。確かに見つかるとやっかいかもね。でも本当に賢者ならそう言えばいい」

「それが」

 エイルはそこで言葉に詰まった。

 賢者であることは「賢者の徴」を見せればいい。だが賢者として振る舞う場合は自らの賢者名を名乗る必要がある。そうなると【白き翼】の名はあっと言う間に噂として広まるだろう。今のように世界戦争になっている状況ならその伝播速度は平時の比ではない。そうなると【白き翼】の名の意味を知る者が動き出す。もちろんエルデを探すために。

 その後は簡単だ。エルデが以前語って見せたおぞましい恐怖が現実のものになる可能性が生じる。

(エルデならこういう時、どうやって切り抜けるんだ?)

 エイル自身の出自を含め、全てを話すという選択肢はある。だがそれとて証拠などはない。さらなる「信じられない話」を積み重ねるだけだ。混沌を混沌で混ぜっ返すようなマネはさすがにできない。エイルは次にアプリリアージェの顔を思い浮かべた。

 この場に居てくれたらという思いに苛まれる。そして同じだけの自己嫌悪を感じて大声で叫びたい気持ちになる……つまり自分が今までどれだけ二人に依存していたのかを思い知らされる形になるからだ。


 眠り続ける……いや、仮死状態のままのエルデをじっと見つめていたエイルは、その右手の小指にはめられている指輪の事を思い出した。エルネスティーネから婚儀の席で授けられたものだ。エルネスティーネの、いやカラティア家に代々伝わる指輪だと聞いていた。

 エイルは顔を輝かせた。

「そうだ、証拠になるのかわからないけど」

 もしや、と思ってエルデの小指から指輪をそっと引き抜いた。そして注意深く裏側を確認したエイルは満面の笑みを浮かべた。

(やった)

 思い切り快哉を叫びたい気分だった。

 エイルは振り返るとハーモニーに指輪を示した。

「これが証拠?」

「これを見て下さい」

 うなずくエイルに促されて、ハーモニーは指輪を受け取った。

「これは……丁寧で上品な作りね。おまけに相当に上等な指輪ね」

 リリス製と思しき簡素な飾りの指輪は、その指輪自体の細工の繊細さですぐに安物ではないとわかった。少なくともその指輪の価値がある程度理解できるほどの知識をハーモニーは持っていたという事になる。

「ほう、これは」

 いつの間にやってきたのか、フィンマルケンがハーモニーの隣で同じように指輪に見入っていた。

「得意先にリリス職人が居るからわかるんだが、これはまともな細工じゃないぞ」

「まともな細工じゃない?」

 今度はエイルが驚く番であった。

「フィンの言うとおりね。ここまでの細工ができるリリス職人はそう居ないでしょうね」

 それほど精緻な細工が成されているのだという。エイルにはリリスという素材に対する知識がなかったが、二人の説明では普通の金属では当たり前のような細かい細工をリリスに施すのは極めて困難なのだという。

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