第六十五話 三千年前の別れ 5/5
「泣かないで」という私の言葉に、母レティナはこう返した。それは忘れたことのない言葉だ。
「あなたが泣いていると、私は今のあなたのような気持ちになるのですよ」
それからだ。
私は泣かなくなった。
泣いて拗ねる代わりに苛立ちを言葉にしてぶつけるようにした。
痛い事は我慢が出来た。今までは条件反射のように痛ければ泣くものだと思っていたが、我慢する事は意外に簡単だとわかると、もう痛さで泣くことはなくなった。もちろん痛さにより生理反応として涙が出ることはある。だがそれは「泣く」事とはまったく違う事だ。
だから私は泣かない。
理由があった。
私は母を……あんな母の悲しそうな姿を二度と見たくないと思ったのだ。
私はそして夢の中で自嘲する。
シグルトによって母であるレティナの記憶を封じられていたにもかかわらず、母親の縛めは自らの金科玉条としてずっと覚えていた。それどころか泣かないことが……いや、「自分が泣いていると認めない事」が自らを形成する大きな価値の一つだと思い込んでいたのだ。
つまりはシグルトの呪法は完璧にはほど遠かったということだ。
だがそのおかげで私は私を尊厳ある個として強く認識出来ていた。いい事か悪い事かはわからない。だが母と自分に対して誓ったあの決心を覚えていた自分を褒めてやっていいと思う。
そして……。
シグルトは私をそっと抱きしめると耳元で優しい言葉を唱えた。
私はその言葉を心地良く聞きながら、再び眠りに落ちる。
そしてこの後の物語は鮮明に覚えている。
再び目覚めた時、私は「エルデ・ヴァイス」という賢者候補生になっているのだ。
シグルトが私の耳元でささやいた言葉はもちろん記憶を操作するルーンだ。今なら何をされたのか理解するのは簡単だ。なぜなら私も似たようなルーンを既に使った事があるから。ルーンを構築する際に様々な知識を総動員して編み出した複合ルーンと基本的な考え方が同じなのだ。口で言うのはたやすいがその複合ルーンを構築できるルーナーはほとんどいないだろう。自慢ではなくこれは事実だ。シグルトほどの力を持っていればなんとか可能だったのだろうが、それでも完璧ではなかった。この通り私は記憶を取り戻したのだから。
シグルトがおこなった操作は切り取ることではなく塞ぐことだったのだろう。覆い被せたはずの別の記憶はしかし、かさぶたのようにはがれ落ちてしまった。
翻って私がシェリル・ダゲット……いや今ではシェリル・ガーニーだった……に施したものは完全に切り離し、消滅させるものだ。シグルトと違い私は移植を施したのだ。移植部分がはがれ落ちる事はない。万が一はがれ落ちたとしても、そこには別のものは何も無いのだ。
シグルトもそれくらい完璧な禁忌ルーンを施していればよかったものを。
もちろんそうしたかったに違いない。だが出来なかった。そこまで緻密で複雑で膨大なルーンを一つの複合ルーンとして構築するには一種類や二種類の属性エーテルを用いるだけでは絶対に不可能で、それができるのは全種類の属性を制御出来るハイレーンでなければならない。むしろエクセラーであるシグルトにしてはこれ以上望めないほど上手にやったと言っていい。
だが、私とシグルトの違いはそれだけではない。
私とて実は偉そうな事は言えないのだ。一人だけではおそらく諦めていた事だろう。出来たとしても論理形成を成すのに相当な時間がかかったに違いない。
私とシグルトの違いは特性だけではない。決定的なものがある。
シグルトは一人で、私には「あの人」がいる。
あの人はルーナーではない。当然ルーンの知識などない。だがあの人は時折真理というあやふやな円の中心を造作も無く突いてくる。それは亜神のこの私ですら愕然とする程だ。ただ、それは苦渋を伴う認識でもある。経験という鎖と知識という網にがんじがらめにされている自分を直視しろと言われているようで認めたくはないものなのだ。
シェリルの時もそうだ。たとえその時示された事が、極めておおざっぱな方向性であったとしても。
ひらめきという言葉で済ませてしまうのは簡単だ。だが今ならわかる。あの人はやっぱり特別なのだ。そしていつもその特別は私にとってだけであって欲しいと、都合のいいことを考えてしまう自分を止められない。
嗚呼!
会いたい。
あの人の事を思うと、急に体が熱くなった。
会いたい。
顔を見たい。
私の事をまぶしそうに見る顔が可愛くて好きだ。
戸惑った時のちょっぴり間抜けな顔も大好きだ。
ムッとした顔を見ると無性に抱きしめたくなる。
優しく微笑まれたりすると、私はもうダメダメになる。
だから今すぐに会いたい。
もうこんな過去の夢はたくさんだ。
だって不毛だから。
私は過去に生きているのではない。
地に足を着けて立っているのは三千年経った今という時代なのだ。
歴史は受け入れよう。
我が身に流れる血も認めよう。
どうせ変える事は出来ないのだから。
なぜなら今の私でいいと、今のそのままの私がいいのだと、あの人はそう言ってくれたのだ。
そしてそれは嘘ではない。
私にはわかるのだ。
体中で理解しているのだ。
だから会いたい。
暗転した夢の中で私はひたすらあの人の名前を呼んでいた。
会いたい気持ちはやがて焦りに代わった。
私にはわかる。予感がする。
これはやがては恐怖へと変化して、私を呑み込んでしまうだろう。
時間がないのだ。
もう時間が無い。
だからそれまで……それまではあの人との時間は誰でもない、私のものだ。
誰にも邪魔をさせはしない。
誰にも取り上げさせてなるものか。
だから早く、
早く目覚めさせて欲しい。
いつもならば暗転すれば、すぐにあの人の意識の中に入り込むはずなのだ。
だが今回ばかりはおかしかった。
暗転した視界だけの「夢」の時間が長い。
長すぎる。
今までなかった事だ。
(いらんことは考えたらアカン)
私は首を振る仕草をする。
不安……いや絶望が足元にうごめいているのがわかる。この状態を考察することは奴らに餌を与えることに等しい。
私はただエイルに……いや、マアヤに会いたいという思いだけをずっと抱き続けていなければならない。
マアヤ!
マアヤ!!
いや、マーヤ!!!!
私は漆黒の闇に向かって叫ぶ。
声が届かぬ事ははわかっている。だがそんな事はどうでもいい。
その名を叫び続けなければ、きっと私はもう私でいられなくなる。
足首にまとわりつき始めるおぞましい感触に意識が向かぬよう、そして震える体に抗うために、私はあの人の名を叫び続けた。
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