第六十五話 三千年前の別れ 4/5

 私の記憶はそこで終わるのだ。そしてそれまでが私が忘れていた記憶でもある。

 過去の記憶の主要な断片が繋がった。だが繋がっただけだ。しかも必ずしもこの夢の映像が正しい記憶とも限らない。「果たしてこの記憶は本物なのか?」

 いつも自分に問いかける。

 なぜなら基本的に全てが客観視点だからだ。夢ならばそんなものかもしれない。本人の記憶を補完する形で紡がれている可能性が高い。だが生まれる前の記憶まで見せられるとなると話は別だ。それは「体験」ではない。だが小さな頃に父や母がいかにむつまじかったかという話をラウネやリートから聞いていたから私がそれを「作り出す」事は容易なのだ。だからまったく知識も経験もない事は夢に見ない。私はあの屋敷と屋敷の前に広がる森と、森の中の獣道しか「風景」を知らない。

 既にここまでの話は、エーテル体となったシグルトから大筋の説明を受けていた。そして今見た夢は、ほぼその説明通りのものだ。だからひょっとすると客観視ですらないのかもしれないと思い始める自分がいる。

 もちろん私にはもはや事実を確かめる術はない。だからといって夢を全面的に信じる気にもなれない。信じたい部分は信じ、信じたくない、いや認めたくない部分は事実ではないのだと思い込めればどれだけ楽だろう。


 だが同時にこうも思う。この夢は多くの「真実」を含んでいるのだろうと。

 そうでなければ、シグルトがわざわざ私の記憶を封じた意味がわからない。

 そうだ。シグルトが私の記憶を封じた意味を、今では理解しているのだから。


 認識してしまえばとぼけることができない。

 亜神は多くの場合、相手の大まかな感情の流れがエーテルの動きでわかる。それはつまり知っている事を知らないと言いはることができないという意味だ。

 私に記憶がないのであれば、幼い私を知っている人間でも私だと特定出来ない可能性が高くなる。何より私が思い出したくない人間の事を意識することがない。

 もちろんシグルトにはさらに色々な意味あいや理由もあって私の記憶を封じたのだろう。たとえどのような理由があるにせよそれはシグルトが私の事を守ろうとして行った事だ。それには疑う余地が無い。

 もちろん私には自分の記憶を封じたシグルトを責める気など毛頭無い。それどころか感謝してもし切れない気持ちで一杯だ。だからシグルトがもう人間として存在出来なくなってしまったことが残念で悲しい。それは言葉に出来ないほどだ。


 だが。

 それでも私はシグルトを恨んでいる。

 なぜ記憶を封じていたのかという苛立ちを、今この瞬間でさえぶつけたい。

 エイルと……いや、マアヤ・タダスノという少年と出会ってしまう前に、私が私という存在の意味するところを全て知っていたならば、幸福という名の縁に後ろ髪を引かれながら深淵に続く虚無の海をのぞき込むような絶望感に襲われることもなかったに違いない。目を閉じる度にまぶたの裏に見えるのは、底が見えぬその海に溺れながら沈み、そして深海の泡に溶けて消えゆく自分の姿なのだから。

 私は最初から正しくエイミイの王エイルとして、また四聖【白き翼】として存在していればよかったのだ。もうそんな自分を想像すら出来ないが、それはそれできっと不幸でもなんでもない。当たり前の価値観で、私は私としての当たり前を当たり前のものとして生きていくに違いない。



 暗転した視界がやがて薄ぼんやりとした光を帯びた。

 それは夢の中で私が目覚めようとしている証しだ。

 程なく意識を取り戻した私は音のない世界にいた。

 いや……それまでの怒号と地鳴りと閃光が耳をつんざいていただけで、そこにそれらがなかっただけだ。

 鼓動が聞こえる。自分自身の鼓動だ。

 肺を通る空気の音がする。

 息を吸い、吐く、これも私の呼吸音だ。

 静謐な空間。

 音を出すものがないだけで、音がない訳ではない。

 匂いもない。


 そっと目を開けると見たこともない初老のアルヴが穏やかな笑顔で私をのぞき込んでいた。

 その顔よりもまず頭に目が行った。見事な禿頭だ。

 禿げたのか、あるいは自ら剃っているのかはわからない。もみ上げや額の生え際と思われる部分には剃り跡が認められない。推測するに自然に禿げたのであろう。私の知る限り、毛髪が若くして抜け落ちる現象はアルヴには珍しい事だ。そう言う遺伝か病気か、あるいは一夜にして毛が全て抜け落ちるほどの恐ろしい目に遭ったのか……。


 その考えに至った時、私は弾かれるようにして上体を上げた。

 それは反射的なものだ。もちろんまったく考え無しの行動なのは明白で、その証拠に私の額には次の瞬間に激痛が走った。「目から火花が出る」という例えが大げさではない事を私はその時はじめて知った。


「痛っ」

 声はまさに異口同音だった。私と禿げた初老のアルヴが同時に同じ悲鳴を上げたのだ。

「痛たたた」

 幼い私は相手のことを気遣うよりも自分の頭が割れたのではないかという恐怖に支配されていて、自分の額を撫で回すのに必死だった。

「驚かせて申し訳ございません」

 幼い私と違い、禿頭のアルヴはすぐに私の身を案じた。とは言いつつ涙をにじませて額に手を当てているところを見ると大の大人であっても今の頭突きは相当に堪えたようだ。

 つまり私はそれほど急激に上体を起こしたのだ。

 もっともこれは今だから言える事だが、よくもまあ相手が無事でいたものだ。幼い子供の力だったからだろう。亜神の大人がその気になって頭突きをすればたとえアルヴであろうと額を手で押さえる程度で済むはずがない。


「いやいや、お元気そうで何よりです、エイルさま。それも予想以上の元気さで」

 禿頭のアルヴに自分の名を呼ばれ、私はようやく自分の事について考えるきっかけを得た。

 そう。私は名前を呼ばれた。正しい名前だ。

 母レティナが付けてくれた、とても大好きな名前だ。

 間違いない。

 間違いようがない。

 それはつまり、相手が私の事を知っている事になる。

 だが私は知らない。

 知らない……はずだ。


 そんな私の心の内を見透かすようにアルヴは優しい声をかけてきた。

「無理もございません。ここは時が止まっているようなものですが、現世ではあれから相当な時が経ております。もっとも私とて現世に身を晒したのはせいぜい二百年程度。大きな事は言えませんが、それでもエイル様の知っている姿とはずいぶん変わってしまっております」

 アルヴの言葉で私は直感した。

 いや、とっくに感覚では理解していたのだ。だから飛び起きたのだ。

「お前はもしや、シグルトか?」

 幼い私は怯えたような、それでいて縋るような表情で初老のアルヴを見上げた。うなずくアルヴの表情は穏やかで、心に染みいるような慈しみに満ちていた。

 その男がシグルトであるなら、私はそんなシグルトの表情を初めて見たことになる。私が知っているシグルトはいつも無表情で、いや、むしろ厳しい顔ばかりしていた。時折見せる気が緩んだ表情は私に注がれる事は無く、もっぱらラ=レイ姉妹に向けられていたはずだ。


(そうだ!)

「ラウネはどこだ? リートはどうした? 母さまと父さまは?」

 私は思い出した。

 光と音と熱の坩堝(るつぼ)に落ち込んだような記憶がまざまざと蘇り、無意識に体が震えた。

「心配はいりません」

 だがシグルトはにっこりと笑うと、そのアルヴの大きな手で私の頬をそっと包んだ。その時初めて、私は自分が涙を流しているのを自覚した。


「おやおや。何か恐い夢を見ましたか?」

 問われるままに私はうなずいた。

「お母上もお父上もいつも仰っていたではありませんか。むやみに涙を見せるなと」

 シグルトの言うとおりだ。

 私はかなりの泣き虫だった。我が儘だったし堪え性のない子供だったと思う。気に入らないことがあるとすぐに泣いて駄々をこねたものだ。

 ある日いつものように私が駄々をこねて泣くと、母の様子がいつもと違った。

 普段ならすぐに抱きしめて頭を撫でてくれる母が、私に触れようとしないのだ。私は不安になって目を開けた。するとそこには今まで見たこともない光景が広がっていた。

 母が……泣いていた。

 涙を流して、悲しそうな顔で泣いていたのだ。

 生まれて初めて……とは言えたかだか七年か八年か生きてはいなかったのだが……本当に悲しいというのはこういうことなのだと子供ながらに思ったものだ。

 私は訳のわからない泣き声を上げながら母親に飛びついてた。その時の私は今まで自分が何に対して怒っていたのか、何を拗ねていたのか、そして何を期待していたのかを全て忘れていた。ただ、母の涙が悲しかった。凍てついた心に呼応するように体が震えていた。それは寂しさを通り越した恐怖に近い感情だったと記憶している。

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