第六十五話 三千年前の別れ 3/5
私は子供心にクロスが「亜神狩り」とやらから母を、そして父を守ってくれる可能性を考えていた。だが全てを見透かして自分の思い通りに事が運んでいると思い込んでいたクロスにも誤算が生じていた。
「亜神狩り」の対象はエイミイの王だけではなかったのだ。情報を渡すなど「味方」であるはずのアイリスの王も一気に滅しようと、もろともに攻撃を仕掛けてきた。
クロス自身は自然の理(ことわり)を無視したその能力により命を失うことはないだろう。だが彼は私の身を案じた。
だからシグルトたちに命じたのだ。「逃げろ」と。
そして自ら母に声をかけ、合力して封じられた結界のほんの一部を壊して私達四人を逃がしてくれた。亜神が、それも十二色の王が二人がかりで開けた穴は我々が通り過ぎた瞬間に塞がれた。それだけ強力な結界であったのだろう。そしてそれは、彼らがそこから出るのはほぼ絶望的だという事を示していた。
シグルトは結界を出る前に母からプリズム型のスフィアを受け取っていた。はじめて見るそれが何かを私は知るよしもない。
だが今はわかる。それは今、私の精杖ノルンにはめ込まれている「宝鍵」だ。逃げるために必要なそれを、しかしシグルトはどこででも使えるわけではない。それを使える所まで逃げる必要があった。そしてそこで我々は「宝鍵」により「時のゆりかご」に逃げ込めばいいのだ。それができれば我々の「勝ち」である。
だが、その単純な作戦は困難なものであった。
思ったよりも「亜神狩り」の軍勢は多い……いや、巨大な「濁流」と表現すべきものだった。幼い私には無尽蔵に溢れて出てくる湧き水にも思えた。湧き水と違うのはそれが決して清冽なものとして感じられなかったからだ。むしろ粘性を持ったどろどろとしたもので、だからそれは悪意と敵意と憎悪と恐怖を練り込まれた溶岩流と呼ぶ方がふさわしいのかもしれない。
当時はよくわからなかったが、物事がそれなりにわかった今ならば、世辞をまったく廃してこう言える。ラウネリアもエルデールトリートも素晴らしいルーナーだったと。
今日であれば二人とも大賢者となっても誰も文句の付けようのない程の高位のルーナーだったのだ。
何をどう工夫したのかわからないが、シグルトを含めて三人とも短時間でルーンを終了する術を既に知っていた。当時のラ=レイ一族には今よりも高度なルーン解析術があったのだろう。精霊陣と組み合わせることに依る短縮なのは間違いない。だが精霊陣にさほど興味のない私にはその術式の深さはわからない。
結果として彼女たちは追っ手の動きを何度も停滞させることに成功していた。たった三人のルーナーにしてはよくやっていたと言うべきであろう。私は振り向くことを許されず、ただ怒号とも悲鳴とも言えぬ「音」を聞いていただけだった。
だが追っ手は執拗だった。ルーナーだけの我々とは違い、相手には高位のフェアリーが何人も居た。それが何を意味するかを知らぬシグルト達ではない。だから後方だけを気にしているわけにはいかなかったのだ。
やがてシグルト達は決断を迫られることになった。
それには話し合いなどはなく、あらかじめ決められていたかのようにラウネリアが短く宣言しただけだった。
「私が」
それだけだった。
シグルトもエルデールトリートも何も答えなかった。
私はその時の二人の顔を覚えていない。見ていないからだ。覚えているのはラウネリアがそれまでの厳しい表情を解いていつもの笑顔で私に微笑みかけてくれたことだ。
「『お継ぎ』さまは、いつまでもお健やかで」
そう言って私の頬をそっと撫でると、まるでそれが合図であるかのように私を抱いたシグルトは走り出した。エルデールトリートがそれに続く。
嫌な予感を覚えた私はシグルトに、ラウネはなぜ付いてこないのかと尋ねた。
「大丈夫ですよ」
答えたのはすぐ後を走るエルデールトリートだった。
「大丈夫です」
二度目はまるで自分に言い聞かせるようにきっぱりとそう告げた。あまりに落ち着いているエルデールトリートの声を聞いた幼い私は素直に「大丈夫なんだ」と思った。
そして少ししてそのエルデールトリートも私とシグルトのそばから居なくなった。
ラウネリアとは違い何も言わず、エルデールトリートはただ私の手を一度握っただけだった。
シグルトは相変わらず何も言わない。時折立ち止まってルーンを唱えるだけだ。
エルデールトリートが居なくなった後、気付けば辺りは静かになっていた。
それまで感じていた追っ手の気配が消えたのが私にもわかった。
ほっとしたのだろうか。それとも気が緩んだのだろうか。両者は同じ意味のようだが私はおそらくその時後者であったように思う。
二人だけになった私は急に心細さを感じ始めた。つまりほっとしてはいなかったのだろう。
だがその静寂は「あれ」の前触れであった。
シグルトが突然立ち止まった。
ルーンを唱えるわけではなかった。そのまま動かないのだ。
様子がおかしい。
私はシグルトを見上げると、その視線を追って立ち止まった意味を知った。
数え切れない程の……人間が、我々の行く手に集まっていた。
そこに相当数のルーナーがいるのは精杖の数でそれとわかる。その他大勢は剣や槍、弓矢といった武器を手にしていた。
全員が物々しい格好をしていた。着ているものは戦闘用の服なのだが、幼い私には派手で恐い格好だとしか感じなかった。だがそれよりも何よりもその集団から急激な敵意が立ち上っているのが肌でわかった。まるで黒く染められたエーテルがこちらを覆うように広がっているのが見えたのだ。
シグルトが精杖を取りだすのが合図であったように、その集団から巨大な光が発せられた。もちろん向かう先は私達だ。同時に矢が放たれるのが見えた。
光が直撃したが、私達は別れ際にリートがかけてくれた見えない防御壁のおかげで無事だった。
だがそれも、あんなに矢を掃射されてはすぐに消えてしまうだろう。
シグルトはしかし短いルーンを唱えると広範囲の炎を放ち、その矢を一瞬で灰に変えてみせた。続いて高温度の炎の球を次々に無数に発生させ、前方の「敵」に向かってぶつけた。
しかしそれは敵の前で無色の物理的な壁にぶつかり、爆発音と共に白い霧を発生させて消滅した。水の壁だった。知らぬ間に相当な厚みがある水の壁を展開していたのだ。火球はその水の壁を貫くことが出来ず、ただ水を蒸発させ熱量を吸い取られ消滅した。
相当なコンサーラか、高位の水のフェアリーがいるのは間違いなかった。
それよりも何よりも双方にまったく会話がないことが子供心に恐ろしかった。問答無用なのだ。つまり相手は私達……いや、私を滅することしか考えていないのだ。
呆然とする私の耳に、後方から微かに音が聞こえてきた。聞き覚えのあるそれは追っ手のものだ。追いついてきたのだろう。
その時私の心によぎったのはラウネリアとエルデールトリートの事だった。
(二人はどうしたのだろう)
「目を塞いでいて下さい」
シグルトが厳しい口調でそう言った。
「え?」
「そのままですと、まぶしさで目が潰れてしまいますから」
有無を言わさぬ口調だった。シグルトが直接私に何かを命じる事はほとんどないが、命じる時は容赦が無い。ラウネリアやエルデールトリートと違って甘えは許してくれない人だった。
だから私は素直にうなずくと力を入れて目を閉じた。
その様子を見たシグルトは一瞬ふっと笑うような息をした。
次の瞬間だった。圧倒的な光が発生したのが見えた。いやまぶた越しでも感じたというべきか。同時にあちこちでどんどんという地響きが起きた。そして熱だ。一瞬で気温が何倍も上がったのではないかと思うほど肌が熱い。
続いてシグルトは何かを叫んでいた。
「ヘルベッティ・タリクーマ!」
そう聞こえた。
今ならわかる。それは古語で「灼熱の地獄」を意味する言葉だった。
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