第六十五話 三千年前の別れ 2/5
「ずるい」
思わず私はそんな事を口にしていた。「ずるい」と言う言葉を使ったが、それはまだ自分の心の内を的確に表現できる複雑な言葉が私の語彙になかったからだろう。自分が知る言葉の中で最も今の感情に近いものを選んだに過ぎない。
だが「回想の夢」を見ている今の自分にはよくわかる。「ずるい」ではない。その時私が「ずるい」という言葉に込めた意味は「それはおかしい」と「辻褄があわない」、そして「習ったことと違う」というようなものが混ざり合ったものだった。
詠唱もなくルーンが発動し、あまつさえそのルーンは「完全に元通りの体になる」ものだという。
そんなルーンはおかしい。
法則に則っていない。
そもそもこの世に存在しないルーンだ。
そのはずだったのだ。
だが母の表情を見ればわかる。クロスの態度もそうだ。それは「嘘ではない」のだ。だいたい私はそれを目撃、いや体験したのだから否定すること自体がおかしい。
「昔……」
絞り出すような声で母がつぶやく。
「あの子は私の前で自分の首をはねて見せた事があるの」
それは父に向けた言葉だった。
「でも、まばたきする間もなく元に戻った」
「うん、そうだったね」
クロスは母のつぶやきに言葉を被せた。
「そのあと僕はレティナおばさんにこう言ったんだ。『僕を殺そうとしても無駄だよ』ってね」
母は小さくうなずいた。
「そしてあなたはこうも言った。『だから僕の手伝いをして欲しいんだ』と」
「でもレティナおばさんは間髪入れずに断ったっけ」
クロスはそう言うと肩をすくめて見せた。
「あれは悲しかったなあ。どれくらい悲しかったかというと、アルヴがピクシィを滅亡させてしまったと聞いた時と同じくらいかな」
「え?」
私は自分達親子はピクシィという種族だと聞かされていた。だから、クロスの言葉は衝撃だった。
「正確にはまだ絶滅はしていないけど、残ったピクシィの集落の情報はシルフィード軍に流しておいたから、絶滅も時間の問題だろうけどね。この場合の時間の問題というのは具体的には……」
「やめて!」
母の制止にクロスは素直に従った。
「わかった。嫌ならこの話はもうやめるよ。たいした話でもないからね」
「あなたは何がしたいの? ピクシィに……」
「特に何も。別にピクシィに恨みなどはないよ。うん、嘘じゃない。そんなものは欠片もないさ。この場合の欠片というのは一度もそんな事を思ったことすらないという意味だよ。つまり僕はピクシィの滅亡など特に望んではいない。そんな事はレティナおばさんだって知っているはずだよ」
私は母の後で震えていた。母の恐怖が伝わっていたからだ。そしてそのたとえようもない恐怖に母が呑み込まれようとしているのがわかった。私はクロスが恐かったのではない。母がそんな恐怖心に耐えている姿が痛々しかった。私はそんな母の代わりに震えていたのかもしれない。
「話を元に戻そう」
クロスはそう言うとゆっくりと地面に降り立った。
「時間がない。おそらくもうすぐ『亜神狩り』が始まる。その子の命を助けたければ僕に預けるしかないよ」
思い出した!
私は全て思い出していた。
『亜神狩り』だ。
場面が飛んだ。
私はシグルトに抱かれて移動していた。
速い。
アルヴが本気で走るとこんなに速度が出るのだなあと、私は呑気な事を考えていた。
シグルトの後ろには二人の少女が続いていた。
ラ=レイの姉妹だ。
ラウネことラウネリアと、リートことエルデールトリートだった。
緊迫した状況なのは間違いない。それは今まで見たこともない姉妹の鬼気迫る表情で知れた。
だが過去の夢を俯瞰している私の意識は、そんな状況にあっておよそその場にそぐわないことを考えていた。
それはシグ、いやシグルトがいかに捻りのない感性の持ち主なのかという揶揄めいた気分によるものだった。
名前だ。
もうわかってはいた。だが改めて思う。なんと安直な命名なのだろう、と。
シグルトは自らをシグという名に変えて「今」つまり現世まで生き延びている。
そしてラ=レイの女と結ばれ、その間にもうけた娘に付けた名がラウ。
それがラ=レイ一族の姉妹のうち、姉のラウネリアからもらったものなのは明白だ。
そしてもう一つはこの私だ。
私の仮の名であるエルデは、妹のエルデールトリートからもらったものなのだ。
シグルトにとって己の護衛であった姉妹は特別な存在であったに違いない。だからこそ彼は大切な二人にその名を重ねたのだろう。言い換えればだからこそ安直であるべきだったのだ。
そう言えばシグルトはこの間、エルデ・ヴァイスとは「白い翼」の意味だと言っていた。エルデという名は翼という意味なのだ。ではきっとエルデールトリートとは翼に関する意味のある名前なのだろう。そしてしまったと思った。ならばラウという名前も私が知らない言語の由来で、当然意味があるに違いない。それを聞いておけばよかったと思ったのだ。
今にしてその思いが悲しく突き刺さる。
なぜなら俯瞰している状況は悲しい敗走だったからだ。
敗走、少なくとも逃げていることはわかっていた。なぜならその少し前のやりとりが記憶の中にあるからだ。
血の出るような逡巡の後、母は笑って私にこう言った。
「シグルトと一緒にお行きなさい」 と。
クロスの言葉に従い、母は私を手放す決心を決めたのだ。もちろん決め手になったのは『亜神狩り』という言葉だった。
それがどういう事を意味するのか、あの頃の私は当然ながら知るよしもない。だが今ではもう全て理解している。
ルーンを無効化するありとあらゆる方法を物量として所有する「人間」がその圧倒的な数と力をもって行う、虐殺の儀式の名前だ。そして亜神の弱点、ルーナーの弱点、エレメンタルに対抗しうる力。それら全てを揃えた「人間」による狩りの名称とも言えるだろう。
直接その場を見たわけではない。だが後付けの知識でどういう事が行われたのかは理解している。
「エレメンタルにはエレメンタルを」
それがエレメンタルに対する最も簡単でかつ有効な対処法なのだ。
クロスの言う亜神狩りの一行は、一人もしくは複数のエレメンタルを有していたのだろう。一人なら炎精である父と対決することで母を孤立させる事ができる。母がエクセラーやコンサーラであれば亜神狩りの戦力がいくら大きかろうと相当な困難を覚悟せねばならないところだろう。だが母……エイミイの王【白き翼】はルーナーとしては最も闘いには向かないハイレーンだ。しかも護衛であるはずのエクセラーとコンサーラは娘の護衛として手放した後の闘いである。
今の私はその時の母の気持ちが痛い程わかる。
私が母の立場であったなら間違いなく同じ事をシグルトに命令し、泣きながら懇願するラウネリアとエルデールトリートに厳しい罵声を浴びせたあとでこう尋ねるに違いない。
「エイルを一人でいかせるつもりですか?」 と。
そしてこう続けるのだ。
「あなたたちだからこそ、我が娘を託せるのです」
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