第六十四話 木漏れ日の下 3/3
「ああああああ」
時折、何の前触れもなく叫び出すエルデを、エイルはもてあまし気味であった。もちろん、ふと思い出すのだろう。
とは言えエイルにも気持ちは痛い程わかる。何しろ当事者の一人なのだから。だが、せめてもの救いはあの場に二人のことを知っている人間などおそらく居なかった事、そしてこれから再会する可能性も極めて低いことだった。
「もうあの宿からだいぶ離れた。気にするな」
「そんなんわかってるけど」
エルデは涙目で訴えた。
「女の子としてはああいう声を他人に……しかも思いっきり聞かれるとか、もうどんだけ恥ずかしいか、男のアンタには絶対わからへんと思う」
そしてまた頭を抱えて身もだえし、しばらくの間凹むのだ。
「いや、オレもわかるって」
顔から火が出るとはこの事だろう。エイルはその言葉を自ら体感していた。ずいぶん収まってはきていたが、やはり思い出す度に頭に血が上るのを押さえられないでいた。
「ばかばかしい。過ぎたことじゃないか」
セッカは人型を真似るのを諦めたのか、黒猫姿でエイルの背嚢の上で丸くなって楽を決め込んでいた。
「黒猫ごときにウチの気持ちがわかってたまるか! ああもう……防音が完璧やと思てたから遠慮のう内なる衝動のままに声出してたわけやし」
「だよな。あれはもう、なんというか、ほとんど悲鳴だね」
「言うな、このイカレポンチのスカポンタン!」
午前中はそんな具合で何事もなく過ぎた。むしろ予定よりも距離を稼げていたくらいだった。
昼になり、そろそろ空腹を感じてきた頃に一行はおあつらえ向きの場所に出た。いや、思ってもいないような素晴らしい場所だと言い換えよう。
「へえ」
エイルが思わず声を出すほど、そこは美しい空間だった。
光を遮る木だけでなく灌木がない。森を抜けたのかと錯覚するほど開かれた場所だった。
「キンポウゲ畑か」
「見事というのはこういう時に使う言葉なんやな」
そう。そこに広がっていたのは、昼星の光が溢れる黄色い絨毯のような景色だった。点在する何本かの巨木が適度な日陰をつくり、様々な者達に優しい空間を提供していた。
鬱蒼とした木々と霧に覆われ昼星の光とは無縁とも思えた昼なお暗い迷いの森にあって、ここはまさに「異世界」と呼んでも差し支えのない空間と言えた。
「ちょうどいいや。あの木の下で休憩にしようぜ」
そういうエイルの言葉よりも早く、セッカが背嚢から飛び降りてキンポウゲの畑に飛び出していった。
そんなセッカの後ろ姿を、珍しく優しい表情で見つめているエルデに、エイルは忘れていた違和感が再び頭をもたげるのを感じた。ほんの少しだけチクリとする、例のハッキリとしない不安感だ。
「黒猫の分、あったっけ?」
小さなため息の後でエルデが訪ねる。
「そういや、中身を見てなかったな。まあいいさ。オレのチーズを少し分けてやるよ」
「言うとくけど、自分の脚で歩いてないヤツにエサとかやる必要はないで」
言葉とは裏腹に、エルデは穏やかな表情を浮かべたままだった。
「エル……」
声をかけようとしたエイルの手を、エルデが掴んだ。出かかった言葉をのみ込むエイルに、エルデが柔らかな微笑を見せた。
その笑顔を見て、エイルは全身に鳥肌が立つのを感じた。もちろん恐ろしいわけではない。不気味なわけでも、ましてや嫌悪などでもない、別の感覚がそうさせたのだ。
この世で一番尊いもの……エイルは今それを見たような気がしたのである。
それは感動と言っていいだろう。言葉で表すと簡単だが、それを体験する事は難しい。
「どうしたん?」
エイルの表情をのぞき込んだエルデが尋ねる。
「いや」
自分がうっすらと涙ぐんでいたことに気付いたエイルは、慌てて袖口で顔を拭った。
「変だな……お前の事、ものすごく綺麗だなって思ったら、目頭がちょっとな……」
「あほ」
エイルの言葉に照れたのだろう。エルデは顔を赤くすると恥ずかしそうに顔を背けた。
「ウチらもいこ」
「ああ」
言いようのないほんの微かな違和感が続く事で、エイルは自分の情緒が思ったよりも不安定になっている事は自覚していなかったのだろう。涙ぐんでいる自分に驚きながらも、小さな不安の芽など、その笑顔ひとつで吹き飛ばしてしまうエルデに対する感謝の気持ちで一杯だった。
食事が終わると、エルデが大きなあくびをした。
「かんにん」
恥ずかしそうに口を隠すエルデに笑顔を向けると、エイルは立ち上がった。
「さっき湧き水があったろ。水筒に詰めてくるからお前はここで休んでろ」
エルデの頭を優しく撫でてそう言うと、かがみ込んでその頬に口づけた。予想もしないエイルの行動に驚いたエルデはあっと小さく叫んだが、エイルはすでにそれを背中で聞いていた。
小走りに去って行くエイルの後ろ姿にエルデは微笑みを送ると、木の幹にもたれるようにしてゆっくりと目を閉じた。
エイルは少し離れたところから、そんなエルデを振り返った。
瞼を閉じ穏やかな表情で木漏れ日に抱かれている瞳髪黒色の少女の姿を見つけると、自分も満足そうな表情を浮かべて踵を返し、湧き水があるところへ駆けだした。
その十数分後に襲い来る後悔を、当然ながら微塵も想像することなく。
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キンポウゲの海を渡るすこし湿り気を帯びた緩やかな夕風が白い頬を撫で、通り過ぎるついでに黒い前髪を揺らして去って行く。
すっかり傾いた昼星の、最後の光が木漏れ日となり少女の顔に揺れる濃淡を落としている。
エイルそんな美しい少女を、もうずいぶん長い間見下ろしていた。
足元に転がる水筒からこぼれた水が靴をすっかり濡らしていることすら気付いてはいない様子だった。
エイルはただ、ひたすら目の前の瞳髪黒色の少女を見つめ続けていた。
目を開けて黙ってすましているだけでぞっとする程の強さを見せる少女の美貌は、しかしその目を閉じると少々変化する。目を閉じてももちろん整った顔立ちはそのままだが、特徴的なあの瞳が見えないと恐ろしさが影を潜めるのだ。
だが今、エイルの前で大木にもたれるようにして目を閉じているエルデは、美人というにはとても幼く見えた。普段とは違う表情だからだ。
もう何度もエルデの寝顔を見ているはずのエイルでさえ、その時のエルデの満ち足りたような穏やかな微笑みは、初めて見るものだった。
「エイル……」
長い沈黙に耐えかねた黒猫が声をかけた。
「もう、日が暮れるよ」
セッカは自分の声がエイルに届いているのかどうかが不安になっていた。
何度声をかけてもエイルは反応しないのだ。
虚ろな表情を浮かべたまま、ただじっと自分の妻を見つめ続けていた。
「あの……」
「黙れ!」
何度目かの呼びかけに等々エイルが応えた。だがそれは会話をする為の答えではなく、会話を止める為の叫びだった。
「黙ってろ、聞こえなかったらどうするんだ」
「聞こえるって?」
何が? と問おうとしたのだろう。エイルもそれはわかっていたに違いない。
「エルデの声に決まってるだろ」
セッカはその言葉を聞くと首を左右に振り、その場で丸まって目を閉じた。エイルの気が済むまでつきあう事を決めたのだろう。
いや、エイルが現実を受け入れるまでと言い換えた方がいいのかもしれない。
エイルが戻った時にはもう、エルデの息はなかった。もちろん鼓動もない。穏やかな笑顔のままで、彼の若い妻は眠るように時を止めたのだ。
半狂乱になると思っていたエイルはしかし、なぜか無反応に近かった。しばらくそっとエルデの体を抱きしめていたが、やがて立ち上がるとこれから何かが起きるのを待つかのように見つめ続けていた。
やがて迷いの森の日が暮れる。
瞳髪黒色の少年は、それでもじっと見つめていた。
自分と同じ色をした少女の髪が、ゆっくりと闇に溶けてゆく様を。
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