第六十四話 木漏れ日の下 2/3
夜が明けて支度を済ませた二人は、食堂で居心地悪く朝食をとる事になった。
視線を感じるのだ。その視線を辿るとことごとく目を逸らされる。言いがかりを付けられているわけではないのだが、落ち着かないことこの上ない。
「しゃあないやん。ウチは平気や」
エルデはそう言って無視を決め込む態度を取ったが、エルデだけでなくエイルは自分にも視線が集まるのを感じていたので慣れないことこの上ない。
もちろん注目される理由はわかっていた。
特に口止めしたわけではない。宿の主人が「瞳髪黒色の美人が泊まっている」くらいは他の客……おそらくは顔見知りばかりであろう客に話していたのだろう。その噂の実物が本当に現れたのだから注目を集めるのは仕方がない。
エルデはもう頭を隠すこともせず瞳髪黒色の姿のまま堂々と食堂に入ると、当然ながら悪びれる風もなく出されたスープをすすっていた。宿の主人がエルデに対してどのような形容をしたかは不明だが、実物のエルデがその形容を越える美女であることはまず間違いないだろう。つまり奇異の目で見られる下地は十分すぎる程整っていたと言える。
だが、エイルは次第にその考えだけでは説明できない、言い換えるならば予想していたものとは視線の質に違いがあるような感覚に囚われ始めていた。
向けられているのが「好奇」という項目に属する類の視線であることはまず間違いない。だがそれだけではない「何か」を感じるのだ。
だがそこにはあからさまな敵意がない。すると考えつくのはおおかた昨夕の宿の主人との一悶着を誰かが目撃してたという推理だ。つまり瞳髪黒色ですこぶる付きの美女、しかも金持ちで怪力の持ち主……確かにそれだけ揃えば興味を惹かないわけがない。
居心地の悪さが後押しをしたのでもないのだろうが、いつもより早めに食事を済ますと二人はそのまま出発する事にした。予定ではその日の行程はやや長い。だからできるだけ早めに出発したかったという事情ももちろんあった。
二人はそれぞれ簡単な荷物を手にすると、カウンターへ向かった。宿代の精算はない。頼んでいた簡単な昼食を受け取るためだ。
「出発か」
「ああ」
「用意してあるぜ」
あれから応急処置を施したのだろう。カウンターは一見何事もなかったかのように修復されていた。少なくとも何も知らない人間であれば何ら違和感を持たないと思われるほどには。
エルデに破壊されたはずのカウンターは元通りの位置に据え付けられていて、大きな麻布に覆われていた。布を持ち上げなければカウンター自体がどうなっているのかはわからない。もちろん取り払うと「楽屋裏」が見えるのだろう。カウンターに視線を落としたエイルを見て、宿の主人が苦笑したのがその証拠と言える。
エイルは宿の主人の表情を見て改めて感じていた。人間は逞しいものだと。
昨夕あれほどの恐怖を与えられたにもかかわらず、一夜明けた宿の主人はエルデを見てもさほど怯える様子はなかったからだ。
いや、これが普通の町の平和な宿の主人であれば心に傷を負うような人生の一大事と捉えたのかもしれない。だがここはまだ「はずれ」とは言え「迷いの森」なのだ。
「外面なんか当てにゃならねえぜ。この森にいる奴らは全員がならず者だと思った方がいい」とは当の宿の主人の助言だ。つまり自分自身がならず者だと吐露したわけである。それなりの修羅場を経験した事があるということで、立ち直りもそれなりだと言うことなのかもしれない。
だからこんな事も言えるのだろう。
「なあ、あんた達に一つ頼みがあるんだが」
パンとチーズだけの簡単な昼食を手渡しながら主人が言うには、エイルとエルデの二人が自分の宿に泊まったという「しるし」が欲しいというものであった。
顔を見合わせる二人に主人は頭を下げて続けた。
「頼む。あいにくまだ俺の耳には届いちゃいないが、お前さんたちは若いけど名のあるお方にちげえねえ。特に奥方には感服した。瞳髪黒色ってだけじゃねえ。今まで見た女の中じゃダントツ一位、しかもおそらく死ぬまでその地位は変わらねえくらいの絶世の美女だ。そしてただの護衛かと思ってたアンタは、その美人の奥方が本気でベタボレでぞっこん……なにせ一晩中離してもらえねえ程メロメロになっている程の男だ。普通の男じゃねえことはそれでわかる。そんな『正体知っちまったら小便ちびるにちげえねえ』二人が泊まった宿って事になりゃあ、いくら学がねえ俺でもこれはとんでもなく名誉な事だってわかるんだ。だからほら、いや、色々事情があるんだろうから、本名を書けねえってくらいは俺もわかってる。いや、むしろ本名なんて聞いちまったら命がねえかもしれねえしな。だから偽名でいいんだ。なんなら手形でも足形でも、何となくそうかな、と匂わすような、でも俺にとっちゃそれを見る度にあんたらを思い出せるような、そんな『しるし』が欲しいんだ。なんつうか、あの絵みたいなやつがさ」
宿の主人はそこまで一気にまくし立てると、壁に飾った例の木炭の素描にチラリと視線をやった後で、もう一度二人に頭を下げた。
エイルが戸惑っていると、主人は今度は懐に手を入れ、そこから何かを取りだしてカウンターの上にそっと載せた。
「それからコイツは返す。思いっきりありがてえが、コイツをもらってしかも頼みをきいてもらうのはさすがに虫が良すぎる」
主人がカウンターに載せたものは昨日宿代と修理代としてエルデが支払ったエスタリア大判金貨だった。
「いや、それはもう俺達が納得して払ったものだし、アンタが取っといてくれよ。なあ……って、エルデ?」
頭を掻きながら弱ったような顔でエルデの顔を見たエイルは、そこで耳朶まで真っ赤にゆで上がっているエルデを見つけた。
「な、な、な」
「エルデ?」
「なんでウチらが一晩中いちゃいちゃしてたって知ってんねん」
言葉の調子に比べてエルデの声は極めて弱々しかった。
宿の主人は申し訳なさそうに頭を掻いた。
「いや、さすがにあれだけ艶っぽい声を大声で出されちゃ……」
「あ……」
エイルは理解した。理解すると同時に自分も顔に熱が上がってくるのを感じた。
「どちくしょー。エーテル地帯が移動したんか……」
エイル達は昨夜宿の主人に許可をもらってエーテルが一番濃い部屋を選んでいた。当然ながらエルデは部屋に各種の強化ルーンをかけていたのだ。その中には部屋の中の音が外に漏れないという基本的なルーンも含まれていた。
だが迷いの森ではエーテル濃度が一定ではないという事を忘れていた。いや、理解はしていたがこれほど短時間で移ろうものだとは思っても見なかったのだ。
「結界が……切れてた」
昨夜のエルデの乱れようを思い出して、エイルは頭を抱えた。
そう。
二人は他の宿泊客の視線を集めていた一番の理由を、ようやく、そして嫌と言うほど理解した。
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