第五十六話 クナドル事件 3/4
「わかってるさ」
唇を噛んだまま無言のエイルに向かって、カノナールがつぶやいた。
「あんたは悪くない。そんな事、俺だってわかってる。そもそもあんたが悪いやつじゃないってことくらい俺にだってわかる。だいたい、姉さんが悪い奴に惚れるわけないじゃないか。そんな事、わかってるんだ」
後半は涙混じりの声だった。
「でも、それでもあんたにもらって欲しい。持っていて欲しい。姉さんがどうのこうのじゃない。これは俺の我が儘なんだ」
髪の房を持つエイルの手を、カノナールは両手で包むようにして再び押し戻した。
「俺、姉さんの弟なんだぜ? だったらあんたにそれぐらいの嫌がらせをする権利はあるだろ?」
「カノン……」
言葉を選ぶエイルの肩をエルデがぽんっと叩いた。
「もらっとき」
「え?」
「これはカノンがあんたにかける呪法や。拒否するっちゅう選択肢はないやろ?」
エルデの言葉を受け、エイルは視線をタンポポ色の髪の房に移した。
エルデが言わんとする事はわかった。いや、最初からわかっていた。呪法という言葉を敢えて使いはしたが、エルデがそう思っていない事もわかっていた。
エイルにとってだけではなく、エルデにとってもその髪は「徴」なのだ。
だがエイルはまだ決断できないでいた。しかしエルデの次の一言で心を決めた。
「おおきにな。でも、ウチに遠慮はせんでええんよ」
エイルの逡巡を、エルデはとっくにわかっていたのだ。
「カレンはウチら二人の共通の友人や。そやからエイルがウチに遠慮する事はない」
重ねてそう言うエルデに、エイルは頷いた。
「そうか……そうだな」
エイルは房を手に取ると、そのタンポポ色の髪を括りつけている黒い紐を解き、房を二つに分けた。そしてそのうちの一方をエルデに差し出すと、エルデは心得たようにそれを受け取った。
エルデは自分の髪を一本抜くと、その髪束をそれで器用に束ね、それをカノナールに示した。
「カノンの呪いは受け取った」
エルデは髪の房を大事そうに懐にしまった。
「オレもエルデもラウと同じだ。カレンの事はずっと忘れない」
エイルの言葉をカノナールは、初めて小さく微笑んだ。
話の区切りがついたと判断したのだろう。そんな三人のやりとりを見ていたラウが、カノナールに声をかけた。
「言い難いのなら答えなくてもいい。だが私は真実が知りたい。出来れば知っている事を全て教えてくれないか?」
「それは駄目です。カノンはようやくあの事件を忘れようとしているんです」
悲鳴のような声はエコー・サライエのものだった。だがそんなエコーの手をカノナールは優しく取ると、首を横に振った。
「いいんだ。黙っているより、本当の事を喋って、俺はもう楽になりたいんだ」
********************
ラウの求めに応じ、カノナールはクナドルでの出来事を一通り話し終えた。
しばらくは誰も何も口にしなかった。ただエコーのすすり泣きだけが広間に響いていた。
カノナールが告げた話は、アプリリアージェ達がヴェリーユで耳にした噂とはかなり違う内容だった。もちろん噂を頭から信じている者などその場にはいなかったのではあるが。
もちろん噂と共通する事柄はあった。カノナールが人の命を奪ったという事実である。いかなる理由があろうともそれは許されるものではない。だがカノナールの言葉が事実だとすれば、責められるべきは殺された方の人間だという点でも話を聞いた一同の気持ちは一致していた。
話を聞き終えたエイルは、カノナールの言葉に嘘はないと直感していた。
エイルとエルデがカレナドリィに聞いた限りでは、カノナールは人一倍正義感の強い少年だという。
最も身近な保護対象である自分の町を守る為に自警団に入りたいと決意し、父親であるルドルフに再三懇願したものの、自警団の長を務めるルドルフはカノナールの年齢を理由に首を縦に振らない。
エルデはしかしルドルフ、いやランダールの自警団とシルフィード軍との関係を知っていた為、年齢だけが理由でルドルフが拒んだのではないことを既に知っていた。もちろん年齢は根本的な理由だが、自分の町を守る「力」が他国の援助によって成り立っている事を、ルドルフは息子にまだ知られたくなかったのだ。背に腹は替えられないとは言え、純粋な正義感に燃える少年に理解はしてもらえないと判断したのだろう。いや、そこには背徳感に抗えない大人の姿があったのだ。
カノナールの純粋な思いにはエルデは完全に同調できる。しかし一方でルドルフの気持ちも痛い程わかるのだ。
果たしてカノナールは侯国軍が一般から兵を募っているという噂を聞きつける。家が宿屋なのだ。集まる情報は一般の家庭の比ではない。そしてある日、カノナールは決心する。町を守らせてもらえないのなら、国を守ろうと考えたのだ。それは少年にとって飛躍ではない。ただ思いが強すぎたのだ。
いつものように父親と口論した挙げ句、埒があかぬ思いをもてあましたカノナールは、ついに決心してある未明に町を出た。
城砦の見張りの目を盗むくらい、町の中の人間であれば造作もない事であったろう。だからカノナールの家出が発覚したのはしばらく経ってからであった。
カノナールはまずランダールから最も近い軍の駐屯地へ出向くと、そこで年齢を偽ってさっそく兵に志願した。侯国軍はたいした調べなくカノナールを「補助兵」として取り立て、その場で適当な小隊に組み入れたという。
その小隊は侯国軍本体ではなく、ドライアドが派遣した「委嘱軍」であった。
新米のカノナールに与えられた役目は当然ながら下働き。要するに雑用であった。
兵達の汚れ物の洗濯や食事の準備、後片付けから始まって、補給品の受け取りや兵達の買い出しの手伝い、つまり使い走りとして日々を過ごしていた。
カノナールが配属された小隊は、彼を除いて八人構成であった。
あまり多くの情報を与えられていないカノナールは、自分が今いるのはどういう組織形態で、所属する小隊がどの位置にあるかという事を全く知らされなかった。何しろ中隊規模での作戦が一度もなかったのだ。
所属する軍隊の正式名称や目的などを尋ねても、めんどくさそうに無視されるか怒鳴りつけられるだけであった。場合によっては殴られた。
だからというわけではないが、カノナールは小隊の兵士達が当初から好きではなかったという。
そもそもおよそ規律とは縁のなさそうな態度が彼の思い描いた軍隊と完全に乖離していた。
だらしない兵装。口を開けば耳を塞ぎたくなるような猥雑な話題か酒の話ばかりで、カノナールはだんだん自分が間違った事をしでかしたのだと理解し始めていた。
だが気付くのが遅かった。いや、気付いた時点で既に遅かった。彼が署名した契約では、一度入隊すれば最後、本人からの希望による除隊はできない仕組みになっていたのだ。上官、つまりカノナールにとっては全ての兵士の言うことは絶対の命令であった。返事をしないと怒鳴られ、相手の虫の居所が悪い場合は何も言わなくてもいきなり殴られた。
それでも軍隊の一部に所属している限り、国を守る機会がやってくると信じて歯を食いしばっていたのだという。
しかしそんな兵士達に対するカノナールの疑惑はどんどん大きくなっていった。
彼らは頻繁に「作戦」という名目で駐屯地を空けた。全員が出ることもあったし、一部を残して数人だけで出かける事も多かった。
委嘱軍の主な仕事は反政府ゲリラの掃討である。だからカノナールも「作戦」とは反政府ゲリラへの攻撃だと信じていた。だがその「作戦」から帰ってきた彼らは、その都度様々な「物資」を持ち帰ってきて、それをカノナールに「始末」させた。「始末」とは多くの場合換金の事をさす。食料が多かったが、貴金属などもあった。もっとも食料はともかく、高価な貴金属がカノナールに託される事はなく、彼の換金作業は結果として小銭程度にしかならなかったという。
「作戦」とやらから帰ってきた男達の話題も不穏だった。
殺した敵の数の自慢だけならまだしも、なぜか同じくらい自分が寝た女の話をする兵達に、世間知らずのカノナールも自分が所属している小隊にまっとうな兵士がいないことに気付き始めた。
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