第五十二話 エスカの右目 5/5

 フラウト王国の本気と準備を見せられた兵達に、もはや疑いをいだく者はいなかった。

 試闘の後のヘルルーガの話を、兵達は文字通り食い入るような眼差しで一言一句聞き漏らすまいと息すら潜めて静聴した。

 やがて長い話……いや、演説が終わると、兵達は割れんばかりの歓声で自分達の将軍を称えた。

 それを見たヘルルーガは、思わず大きなため息をついた。エスカが労るようにその肩をポンと叩いたが、ヘルルーガは大丈夫だと一言つぶやくと再び胸をそらし、深呼吸をした。


「兵士諸君!」

 ひときわ凛と響く司令官の声に反応して、王宮前の広場を埋め尽くした二四〇〇人の兵士は、皆背筋を伸ばした。

「ここで一つ提案がある。先ほど諸君らに返したその命だが、改めて私に預けてはもらえないだろうか? 諸君が昨日まで命を預けていたのは、シルフィード王国に忠誠を誓ったベーレント少将だ。だが今日、諸君らの命が欲しいとホザいているのは、年甲斐もなく若い男に惚れて、その男の夢に同調し、それをともに叶える為に命を賭す覚悟をした、その上でさらなる力が欲しいと願うおろかな女だ」


 奇妙な話をする今まで見たこともないような表情の司令官を、兵達は背筋を伸ばしたまま、ただじっと見つめていた。当初の戸惑いと困惑、疑惑と懸念といった感情が、すっかり霧散している事に気付いたものは少ない。もはやそういう事に考えを馳せぬ者が大多数であったからだ。

 多くの兵の気持ちは、実のところヘルルーガの話を聞こうと聞くまいとに関わらず、とっくに決まっていたのかもしれない。

 かつて説明した通り、シルフィード、いやシルフィードのアルヴ兵の帰属本能は垂直式である。シルフィード王国の為、国王の為という、より大きなわかりやすい名目は必要であるが、彼らの感情に最も効果を与えるのは直近の関係なのだ。もちろん近すぎるものは例に入れるわけにはいかないが、この場合は戦場で生死を賭けて戦った元々の部隊の司令官が彼らの感覚的な指導者であった事は間違いないだろう。

 その指導者達……その多くは幕僚であったが、彼らはおそらく今までで最も迷いのない表情でヘルルーガ・ベーレントの脇に微塵の動きも見せずに布陣していた。

 ならば、よほど自らの矜持に反する事でなければ兵達が司令官達に従わぬはずがなかったのだ。

 しかもヘルルーガは兵達に大きな「お題目」すらちらつかせて見せた。しかも屁理屈と揶揄されてもしかたがないとはいえ、シルフィード王国や国王に対して離反はおろか何一つ後ろめたいところなく胸を張って剣を振るえるというのである。


 さらに言えば、兵達のヘルルーガに対する好感度はむしろハネ上がっていたといっていい。氷の刃のように鋭い目で相手を射貫く、まるで私人というものを持たぬかのような完全な軍人、まさに歩く軍鑑(ぐんかん)とも呼ぶべき人間味の感じられない総大将が、初めて出会った男に、あろう事か一目惚れしたと顔を赤らめてわざわざ部下達全員の前で報告をしたのだ。自分達が命を預けていたのは、強くはあっても血の通わぬ戦争道具などではなく、彼らと同じ、弱いところも感情が先走ることもある、同じ仲間であると実感できたのだから。

 

 広場の様子をつぶさに観察していたエスカは、頃合いとみたのだろう。手を上げて誰かに合図をした。

 それが何を意味するのかは、すぐにわかった。

 ヘルルーガがその合図を受けて、ひときわ大きな声で兵達にこう呼びかけたのだ。

「私が掲げる剣の元に集い、共に新しいシルフィードを作らんと思う者は、改めて武器を取れ。なぜならば、我が軍は今から初陣に赴くからだ。最初の敵は城砦の外から我がフラウト王国を狙うドライアド軍である」

 その言葉が終わった瞬間、本来のフラウト王国軍がベーレント部隊を取り囲むように展開した。その両手にはベーレント部隊が城砦に入る際にフラウト王国軍に差し出した彼らの剣と槍が握られていた。

 続いてフラウト兵の後ろ側には何台もの荷馬車が配置され、その扉が開かれた。そこには丁寧に架装されたベーレント兵達の武器がずらりと並んでいた。


「俺はフラウト王国軍務大臣、ベーレント卿より、この戦いにおける先鋒の栄誉を戴いている。我とともに戦うレプトン隊は武器を取って、俺に続け!」

 そのまま武器を受け取っていいものかと戸惑っていた兵達に、大きなダミ声が響いた。誰あろう髭の大丈夫、クォーク・レプトン大佐であった。

 檄に対するレプトン隊の反応は早かった。

 広場の端、最も城門に近い場所に並んでいたレプトンの配下達は鬨の声を上げて自分達の直属の上司の呼びかけに応えると、整然とした足取りでフラウト兵から各の武器を受け取り、広場を後にした。

 クォークがその時どさくさに紛れて口にした言葉は極めて重大なものが含まれていたのだが、兵達はもはやそんな事はどうでも良いようであった。


「まだ正式に発表をしないうちにバラすやつがあるか」

 部隊出発の挨拶をする為に目の前にやってきて片膝を付くクォークに、ヘルルーガは不機嫌な顔を作ってそう言った。

「よいではありませんか。もはやそんな細かい事はどうでもいいのではありませんかな。わっはっは」

 ヘルルーガは頼もしい部下の磊落さにため息をつくと、呆れたように笑顔を見せた。

「まったくだな」

 クォークはその様子をみて目を細めた。

「何だ?」

 クォークの様子に、ヘルルーガが怪訝な顔をした。

「いえ……。いや、やはりここは言っておきたいところですが」

「どうした? かまわん、気になる事があるなら言ってみろ」

「いやしかし……大変失礼な事を申し上げる事になるやもしれません」

「かまわんと言っている。今日のところは少々のことは許そう」

「では、お言葉に甘えて」


 ヘルルーガの許しを得たクォークは、大きな咳払いをしてチラリと幕僚達に視線を巡らせた後で、深々と一例して、こう言った。

「司令。今朝のあんたは、すこぶる付きにいい女だぜ。俺が保証する」

「な……」

 一瞬でヘルルーガの顔がゆで上がった。あまりのことにクォークを罵倒する言葉すら思いつかなかった。それほど興奮したのである。

 ヘルルーガのその様子を見て、クォークはしてやったりという風にニヤリと笑うと、今度は即座に頭を深く垂れた。

「このクォーク・レプトン。改めて閣下にこの命を預ける事を誓います」

 クォークはそれだけ言うと、ゆっくりと顔を上げてヘルルーガの顔をじっと見つめた。既にその顔からは笑顔は消えており、緑色の瞳が厳しくギロリと光った。

「我が矜持に賭けて」

 ヘルルーガはクォークのその言葉に目を閉じた。その一言で、出かかっていた罵声を全てのみ込んだのだ。

 そして代わりに別の言葉を口にした。

「ありがとう」

 クォークはゆっくりと立ち上がると、今度はエスカにその顔を向けた。


「つかぬ事を伺いますが、親交があると言われるカイエン元帥はあなたにとってどんな方ですかな?」

 エスカがトルマ・カイエンと既知の間である事は、主立った将校達には告げられていた。クォークはそのトルマとは浅からぬ関係がある軍人であった。

「そうだな」

 エスカはクォークに柔らかい微笑みで応えた。

「俺は物心がつく前に両親を亡くしちまっててな。オヤジやオフクロっていうもんがよくわからねえ。だが、カイエン元帥がオヤジだったらいいだろうなって思ってる」

 クォークはエスカの言葉に満足したのか、口元に微笑を浮かべると深々と一礼した。

「私が思うに、お隣の美女はあなたの右目たるにふさわしい。この言葉肝に銘じ、大切になされよ」

 それだけ言うとクォークは高笑いをして、エスカの返事を聞かずに踵を返した。

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