第五十二話 エスカの右目 1/5
ヘルルーガの部隊がフラウト王国に対して軍事的に全面降伏し、部隊全員の身柄を城砦内に匿ってもらう事を決めるにあたり、本当に他の選択肢がなかったのかという命題は後世に於いて何度も繰り返されている。
もちろん、その決定がいささかアルヴ族らしくないものなのではないかという理由からである。
そもそも降伏したからと言って「はいそうですか」と匿ってもらえる可能性はない。むしろフラウト側としてはシルフィード軍を匿う利点よりもそれにより生じるであろう問題の方が大きいはずであった。
西進してきたドライアド軍に開城を求められた場合、フラウトはそれを拒否するのか? いや、できるのか?
ならばヘルルーガの部隊を匿ったにも関わらず、開城した場合はどうなるのか?
「匿う」というのはそもそも西進してくるドライアド軍から匿うのであって、その追っ手を迎えてしまうという行為は、すなわち匿った者を「売る」事に等しい。フラウト王国としてはその方が得策なのではないか? アルヴならばいざ知らず、デュナンの国ではそんな裏切りは当たり前の行為だと言っていい。
つまりヘルルーガ・ベーレント少将率いるシルフィード軍に、言わば恩を売ることによりフラウト王国が得るものが……それも対価としては相当に大きなものである必要があるが……なければ、そもそも成立しない申し出であった。
後世の歴史学者はそこを突く。
「ヘルルーガ・ベーレントとエスカ・ペトルウシュカの間には、かねてより密約ないし、交渉のようなものがあったのだ」と。
すなわちヘルルーガ軍が降伏する事はあらかじめエスカが用意していた筋書きの一つであるとする説である。
そうでなければヘルルーガ・ベーレントともあろう名将が、保険もなく数千人の兵士の命を初対面の相手に差し出すおろかな行為に走った事になるというのだ。
しかし残存する両陣営の関係者の日記や手記からは、その「ばかげた行為」を裏付けるものしか見つかっていない。ヘルルーガの作戦はあくまで東進であり、そもそもエスカとはその時初めての見(まみ)えたという証拠しか出てこないのである。
確かに大胆な戦術を使う事はあるが、それは盤石な裏打ちがあってのものであり、そもそも基本的には堅実な戦い方を旨とするベーレント将軍像と、一か八かの「相手頼み」の作戦があまりにそぐわない。
とはいえ新たな証拠がないままに、この時の出来事の根底を成す部分を予測だけで覆すことには無理がある。少なくとも学者ともあろう者が公式な場で唱える理由としてはお粗末すぎると言わざるを得ない。
そして考えてみればわかる。
「一か八かのばかげた行為」など、戦場では当たり前のように行われている事ではないのか?
なぜならそれはもっとも古くからある基本的な戦術の一つであるからだ。
そもそもアルヴは矜持のためならばたった百人の兵で数万人の大部隊に正面から攻めかかるような「ばかげた行為」を平気で繰り返してきた気質の持ち主なのではなかったか?
ヘルルーガ・ベーレントがエスカ・ペトルウシュカの「人物」に大部隊の命運を賭けたとしても、それは驚くべき行為ではあるにせよ「ばかげた行為」という一言で片付けられるものでもないのではないか。少なくともヘルルーガはばかげた行為ではないと確信していたととるべきであろう。
念のため、というわけでもないが、ここでゾルムス・アルダー少佐がヘルルーガの幕僚達に対して投げかけたとされる言葉を紹介しておこう。
その重大な決定が行われた場にいた幕僚の一人が記したとされる有名な日記の一節であるが、それを読むとゾルムスはむしろアルヴの気質を利用して、この「賭け」を幕僚達に認めさせたようなのである。
「我らが戴くイエナ三世が望むのはどちらか? それは万に一つの可能性に賭けて何百、何千という同胞の血でウンディーネの台地を朱(あけ)に染める事なのか、あるいは一滴の血も流さずに生き延びる可能性があるベーレント少将の決断なのか」
「さらに各々方に問う。この部隊に参画するにあたり、我々は全員、既にこの命をベーレント少将に預けたのではなかったか?」
普段は末席にあり、その感情を表に出すことはおろか、熱弁を振るう事などまったくなかったゾルムス・アルダー少佐が、その時ばかりは声を大にし、全幕僚をにらみ据えながら卓を拳で叩き、床を踏みならしさえして決断を迫ったとある。
敗残兵を取りこみながら部隊規模を大きくして勝利を続けていった部隊である。様々な立場や背景があるだけにそれぞれの考え方には温度差はあるだろう。しかし頂点であるベーレント将軍に対する忠誠に限っては幕僚全員が文字通り「矜持に賭けて」間違いのない絶対値を共有していたのである。
ゾルムスはそこを突いたと言える。もちろん切り札であろう。そしてヘルルーガ自身は決して使わない、言わばゾルムスだからこそ使えた切り札であった。
いったん心を決め、事を定めたらアルヴ族の決意は固い。この場合、竜巻の部隊章を掲げるベーレント隊はかつてない精神的な結束を見せる事になった。
この決断により、それまでヘルルーガに対して大なり小なり一物を持っていた幕僚達はものの見事にそれらを捨て去った。まさに部隊は一丸となってその命運をヘルルーガの決断に賭けたのだ。
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ヘルルーガから返却された懐剣を見て、他の人間とは明らかに違う色の動揺を示したのはエスカとリンゼルリッヒであった。
大きく刃がこぼれ、粉々になったリリス製の懐剣。決して損壊することがないとされたその剣が、ものの見事に破壊されていたのである。
ヘルルーガとゾルムスは、エスカの顔色の変化を見逃さなかった。
その現象が意味するところを知っているのはエスカ達だけである。だが、懐剣が壊れることが彼らにとって尋常ではないことはそれまで余裕たっぷりに笑顔を浮かべていたエスカが蒼白になったことでわかった。
「エスカさま」
リンゼルリッヒが思わず声をかけたが、エスカは大丈夫だという風に差し出した手を振った。
「大事な懐剣とうかがっていたにもかかわらず、私の好奇心がこのような事態を招いてしまった。配慮が足らず、まことにもって面目ない。この通りだ」
「気にしないでくれ。そもそもコイツは本来ならこうなるわけがないものなんだ」
頭を下げるヘルルーガに対してエスカは鷹揚にそう答えたが、声の調子が明らかに低い。
「時間が無い。懐剣の話は終わりだ。それよりも話を伺おう」
青ざめた表情のままでエスカが会見の始まりを告げた。
「失礼ながら」
ヘルルーガは目を細めてエスカが懐剣の鞘を握り締めるのを見つめた。
「将軍は体調が優れないようだが」
「気遣いは無用だ」
エスカはニヤリと笑って見せた。
「俺の体調は万全さ。ただ……」
「ただ?」
「いや……なんでもねえ。本当に個人的な事だ。会見には関係の無い話だよ」
「ふむ。ならばいいのだが。必要であればこちらの事は気にせず、医者なりハイレーンなりを同席させてはいかがか」
「つまらん気遣いをさせちまって面目ねえ。本当に大丈夫だ。さっさと話をはじめようじゃねえか」
「しかしだな」
ヘルルーガはそう言って蒼白なままのエスカの表情をまじまじとみやった。
「悪いが俺の体調の話もここまでだ。それよりさっきも言ったが、そっちは悠長にしてる時間はねえはずだろ?」
そういうとエスカは自らの側近達にテーブルに着くように促した。少しの逡巡の後、ヘルルーガもそれにならい、供の者はそれに従った。会見の始まりである。
記録によるとその時の列席者はフラウト王国側がエスカとは別に六人の合計七人、ヘルルーガ側は本人を含めて四人であったとされている。
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