第四十八話 雨。時々絶望 1/7
「あかん!」
ニームの抵抗などものともせず、その腕力にものを言わせてファルケンハインが片腕で小さな体を吊り上げようとした時だった。
倒れていたはずのエルデは短く叫ぶと、膝で歩きながら転がるようにしてファルケンハインの背に縋った。
「その子に手荒な事、したらあかん」
立ち上がる事ができず膝で歩くエルデの、普段とは違う必死なその様子にただならぬものを感じたファルケンハインは、吊り上げていたニームを、ゆっくりと床に戻した。
エルデは俯せに横たえられたニームに急いでにじり寄ると、覆い被さるようして両手をニームの背中に当てた。
「ああもうっ」
だが、エイルの口を突いたのは苛立ちの言葉だった。
「さっき、ティアナに触ったんやった」
その一言で、ルーンが使えない事を失念するほどエルデが焦っているのだと、その場の全員が理解した。それはつまり異常な事態であるという事を意味する。一連の様子から考えると、それは人の生死に関わる程の事であろう事も。
「焦るな。お前はすぐに回復するじゃないか」
そうはいうものの、一見するだけではニームが重篤な状態だとは思えなかった。それなのにエルデが異様にニームの体を心配する様子にエルデだけでなく皆が違和感を覚えていた。
それでもエイルは何かがあると感じていた。だからそうそう声をかけたのだ。
ここまで冷静さを失っているエルデは珍しい。だがエルデの行動にはいつも意味がある。いや、理由がある。
エイルはエルデの肩にできるだけそっと手を置いた。声には出さなかった。根拠もない。だがそれは「大丈夫だ」という言葉の代わりであった。
エイルはそのままの格好で今までの経緯を振り返った。
一連の騒動でティアナが騒ぎ出さなかったのは、ファルケンハインのおかげに違いないとエイルは思った。だからニームのルーンが通用しなかったのだ。
ファルケンハインは、ずっとティアナのすぐ後にいて、その肩にそっと、そしてしっかりと手を置いていたのだろう。今のエイルのように。
ファルケンハインの場合は大丈夫だ、と声に出していたかもしれない。
ティアナと言えば最近はもうすっかり慣れたのか、強面のファルケンハインを怖がらなくなっていた。いや、むしろかなり懐いているようにさえ見えた。だから肩に手を置かれても嫌がるどころか、むしろ安心だったのだろう。
その後はファルケンハインの機転に違いない。気取られぬようそっと動いて、まずはアプリリアージェに触れるようティアナに言い聞かせ、アプリリアージェのルーンが解除されると、その指示で暗がりに紛れて舞台袖に近づき、隙を見てラウ達のルーンを解いたのだ。
ファルケンハインがティアナの肩に手をおいていたのはきっと偶然なのだろう。しかしたとえティアナが誰にも触れていなかったとしても、その場の異様さに気付いてすぐに誰か、つまり真っ先に自分が頼ろうとする相手、要するにファルケンハインなりアプリリアージェなりの体に触れたに違いない。で、あればもうこれは偶然ではない。エルデは遅かれ早かれその命をティアナに救われたに違いないのだから。
エルネスティーネの命を奪う為に作られたティアナ・ミュンヒハウゼンという人の形をした「武器」は、幸運な事にその与えられた使命を果たすことが出来なかった。それはティアナという存在の本質が「武器」ではないという証明になったのではなかったか。
ティアナのキャンセラという個性……天分と言ってもいいかもしれないその能力は、後付けされた暗く凶悪な運命さえ消し去る力を持っていたと思うのは穿った見方であろうか。
どうあれティアナは「エルネスティーネを助ける事ができなかったエルデ・ヴァイス」の命を救ったのだ。それは単なる結果であろうが、紛う事なき事実であった。
共通しているのはエルネスティーネを襲った際も今も、そのどちらもティアナの無意識下で事が始まり、そして終わったということであろう。
ファルケンハインはその体温が感じられるほどの近さでティアナの側に立ち、そんな事を考えていた。
ティアナの自我が、いや記憶が戻る事があったとして、無意識の自分が行った事に対して何を感じるのであろうか。
いや。
考えるまでもなくエルデを助けた事を自らの手柄とは思うまい。同じ無意識下の出来事ではあるが、人というものは罪の方に重きを置くものだ。
果たして「空白の記憶」を取り戻したティアナを、自分は癒やす事ができるのだろうか。
ファルケンハインはそんな心臓が締め上げられるような自分の想像に抗った。
それでも誇るべきなのだ、と。
ティアナは間違いなく一人の命を救ったのだ。
命は算数ではない。だから差し引きがゼロなどという考え方は成り立たない。それでも「お前は何も出来なかったわけではないのだ」と、そう言い続けたいと心に決めた。
そして万一ティアナの記憶が戻らなくとも、自分がそれを知っている限り、生涯誇りとすることを。
おそらくこれからも多くの人間を治癒し、その命を拾い上げていくに違いないハイレーン、【白き翼】の命を守る事が、どれほど誇れる事なのかということを。
一つの命を守ることが、どれほど多くの命に繋がるのかを。
そして確信していた。
エルネスティーネがこの場にいれば、ファルケンハインと同じことを言うだろう。エルデ・ヴァイスを救った自分を誇るべしと、強く。そしてもちろん、手放しでティアナを称えるだろう。
エルネスティーネを狙ったのはサミュエル・ミドオーバでありティアナではない。だからそれを気に病んではならないと、全身全霊を傾けて要求するだろう。
エルネスティーネの事である。ティアナ自身の反論など一切許さないに違いない。
そしてこう続けるに違いない。
エルデを救ったのはティアナのお手柄なのだ。それを認め、噛みしめ、誇るべきであると。そうでなければ承知しない、と。
「久しぶりですね、シーレン」
アプリリアージェはエルデが拘束している三つ編みのアルヴィンに声をかけた。
「あなたの新しい上官は、話し合いという概念をお持ちではないようですね」
シーレンは懐かしい声に目を閉じると小さく声を出して笑った後で、短く答えた。
「まったくです」
「状況を鑑みるに、新しい概念を取り入れることは今からでも遅くはないと私は思うのですが」
アプリリアージェの言葉に、シーレンはため息をついた。
「同感です。誰も死ななくて本当によかった」
「まったくです」
アプリリアージェがシーレンの最初の言葉を真似てそう言うと、二人は同時に声を出して笑った。エイルはそんなアプリリアージェの笑顔を久しぶりに見たと思った。
「この子が強くてよかった。妙な感触の剣士ですね」
笑いの余韻を引きずった顔で、シーレンはエイルを見やった。
「妙な感触?」
その言葉に、エイルは思わず反応した。
「確信を絶望に変える……こちらの確信が強ければ強いほど、混乱が増す。焦りが出る。少なくとも私はお前と対峙していて長い間冷静を保てなかった」
「はあ、そうですか」
「それから、剣それ自体も妙だな」
「いや、コイツは……」
エイルは戸惑いながらアプリリアージェに顔を向けた。シーレンの拘束を解いていいのかどうかを尋ねようと思ったのだ。
だが、エイルはその答えを待たずに、シーレン・メイベルの上から離れる事になった。
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