第四十七話 戦いの果て 3/4
エイルとエルデは、仮設劇場から外へ出ようとして、そこに大きな壁を見つけて途方に暮れていた。
仮設劇場は何者かの結界によって完全にふさがれていたのだ。出入り口はもちろん用をなさない。何しろ外壁に近づくと、元にいた位置から動けないのだ。つまり、空間がそこで輪を作っているようなもので、進むと同じところに立つことになってしまう。闇雲に進んでも同じところで足踏みをしているようなものなのだ。物理的な物、つまりそこに見えない壁があるわけではなく、ただ進めないのである。
エルデはエイルの手を引くと、場所を変えながら結界のほころびを見つけようとしていた。だがすぐにそれが徒労だと理解すると、今度は考えられる限りの防御系強化ルーンを唱え始めた。
「エルデ……」
エイルは舞台の上でルーンを唱えているニームを横目で見ると、再びエルデを自分の背中に隠すようにした。間に入ることによって直接的な攻撃を受けないようにと考えたのだ。鈍く光る妖剣ゼプス両手で持ち、目の前で構えながら。
その時既にエイルの結界は切れていた。
維持の仕方がまだ完璧ではなかったのだ。イオスの屋敷で、エイルと共に制御の練習をずっと続けていたが、持続時間についてはせいぜい一分が限度だった。もっとも大きさを制御しなければ持続時間はいくらでも延びる可能性があったが、そうなると今度は意識を維持できなくなるのだ。エルデはそれを怖れているようで、毎回しつこいほどに強く、同じセリフを繰り返してエイルを戒めていた。
「取り返しがつかなくなる」
それが何を意味するのかをエルデも詳しく知っているわけではなかったが、エイルが自我を消失する可能性が極めて高い事だけは確かなのだという。
エイルはいつでももう一度結界を展開できるように気を高めながらも、同時にシーレンの動きにも気を配っていた。
ただ、シーレンの動きを目で追うのは意識的に避けることにしていた。視覚からの情報は、かえって邪魔になると判断したからだ。高位の風のフェアリーであろうと思われるシーレンの速度に対応する為には、エイルは自分の持つ能力のうち、視覚をあてにしない事に決めたのだ。
ジャミールの里で見たテンリーゼンの戦いがエイルにそれを決心させたと言えるだろう。何度反芻しても、相手が本気なら、まともに戦ってはひとたまりもないという結論しか見出せなかった。
ほんの少し前の出来事で、シーレンが飛び抜けた速度を誇る戦士である事がわかる。最高速はわからないがテンリーゼン並みと見積もっていた方がいいはずだった。何しろル=キリアの一員なのだから。
目で追っていれば、瞬きをしている間に懐に飛び込まれるだろう。それよりも自分自身の能力を信じる方がいい。エイルはそう決めていた。
だが、エイルの感覚をもってしてもルーン自体に対応ができるわけではなかった。ルーンそれ自体に意思はないのだ。だからニームの二度目の攻撃も、結果としてエイルに防ぐことは出来なかった。
「それ」は直線的にエルデに向かわなかった。ニームとエルデを結ぶ直線上に立っていたエイルの頭上から、光の帯が落ちてきたのだ。ニームの稲妻は、弧を描くようにしてエイルを避け、強化ルーンを唱え続けているエルデの頭上に落下した。
ニームはエイルの正体を知っていたわけではない。だがエイルがルーンを跳ね返す事ができる、何らかの力を持っている事をすでに学習していた。その能力を解析するのではなく、即座にエイルという障壁を迂回する作戦に切り替えたのである。
すなわち、ニームが放った光の帯はエルデを直撃した。
もちろん強化ルーンが働いていたため、耐えることはできた。だがエルデの強化ルーンはニームの強化ルーンには敵わなかった。
ニームが稲妻を長く放出していたのは一撃ではルーンを剥がすだけで終わることがわかっていたからだ。だからこそ長秒に渡り稲妻を放出し続けるルーンを練ったのだ。
一方でエイルは再び赤い結界を周りに築く事に成功していた。制御が不安定なため今度は極めて範囲の狭い結界となった。だがそれではエルデに届かなかった。慌てたエイルがエルデに駆けよろうとした時、目の前エルデの美しい顔が急に歪んだ。エイルにはエルデが少し体を動かしたかのように見えたが、その一瞬の後、後方へ吹き飛ばされた。それはまるで目に見えない大きな手でなぎ払われたかのような動きであった。
「エルデ!」
エイルは守るべき者の名を呼ぶと、大きくはね飛ばされたエイルのもとへ、再び足を踏み出した。
かけてあった強化ルーンは、ニームの稲妻で全て無効化されたに違いなかった。つまり、エルデは今、無防備な状態にある。もう一度あの稲妻なり別の攻撃ルーンなりが放たれるとひとたまりもない。
どれくらい保つのか自分でもわからない結界に引き込み、その間に強化ルーンをかけ直すしかない。そうすれば結界が切れても一撃程度は防げるだろう。
だが、エイルにももちろんわかっていた。それはもう、ただの時間稼ぎにしか過ぎないのだ。いや、ごく短時間の引き延ばしだ。エイルの結界が乱れた時、あるいは結界を結べなかった時、戦いに終止符が打たれる。
「くそっ」
エイルはそれ以上考える事をやめた。今やることだけを全力でやる。たとえ少しでも相手から時間をむしり取り、その間に活路を見いだすべきである。とにかく今は目的にただ向かうべきだった。要らぬ考えは動きの鈍さを招く。それは避けるべきであろう。
だが、エイルは二つの敵意を感知して思わず動きを止めた。
敵意……二本の矢がエイルの足を掠めて通り過ぎた。
エルデは妖剣ゼプスを握り直すと、その敵意の元に顔を向けた。
「お前の相手は私だ」
顔を向けた方角から声がした。同時にしまったと思った。
顔を向けた先には何もない事がわかっていたからだ。
案の定、敵意は回り込んでいた。ここまで明確な敵意をもたれていると、エイルには相手の動きが手に取るようにわかった。
だが、相手の動きがわかったとしても、それに体が反応できるかどうかは別の問題である。この場合、相手の声がする方向に体の動きが向かっている最中に別方向からの攻撃を察知した形になり、対応するのに一瞬の遅延があった。
(ゼプス!)
間に合わない事を本能的に悟ったエイルは頭の中で妖剣の名を呼んだ。
またもや矢が二本同時に放たれていた。エイルにはどちらの軌道も読めた。一本の軌道から体をずらすことはできる。だがどうしてももう一本が太ももに突き刺さるのだ。エイルは神頼みのように妖剣の名を呼んだ。
望む力が得られるというゼプスである。それに頼るしかなかったのだ。そしてその二本目を何とか防ぐことができれば、自分に向けられた敵意の持ち主に対し、何とか反応できる体勢を整えられるはずだった。
果たしてゼプスが発動した。
エイルのすぐそばの空気が震えた。
同時に高周波が耳につく。直後に矢が足下の床に落ちる乾いた音がした。
「驚いたな。強化ルーンがかかっているのか」
独り言のような声が右手から聞こえた。エイルはしかし、既に敵意の存在する座標を捉え続けていた。だから驚きはしない。
「やっかいだな」
エイルは声のする方向とは真逆の場所へ妖剣ゼプスを振り下ろした。すると何もないはずのその場所に、突然小柄なアルヴィンの脇腹が現れ、振り下ろされたゼプスをまともに受け止めた。
エイルの視界に映ったのは、横に流れていた金色の三つ編みが、地面に向かって弧を描く様であった。つまり、シーレンの動きが止まったのだ。
その場に片膝をついたシーレンは、そのままの姿勢でエイルを見つめていた。見開いた緑の目に、もはや余裕の色はない。
「驚いたな」
驚愕の表情を浮かべたまま、シーレンは素直な感想を口にした。
「もちろん偶然では……ないようだな」
自分の脇腹にある刀身と表情を変えず構えを解かないエイルとを見比べたシーレンは、そういうと肩を落とした。
それを見たエイルはようやく妖剣ゼプスを、すっと引いた。
「なるほど」
エイルは鈍く光るゼプスを再び正眼に構えながらそうつぶやいた。
「強化ルーンがかかっているということか。まあ、当然だよな」
「いや、しかし、驚いた」
既に番えていた二本の矢と共に手にしていた小型の弓をその場に捨てると、片膝を付いていたシーレンは懐剣を取り出して一歩後に下がった。
「お互い様だな。となると、ここからは手数の勝負ということか」
そう言い終わるよりも速く、シーレンはエイルに向かってきた。
速い。
向かってきたと思った瞬間には、もう背後をとられているのだ。その間、シーレンの懐剣はエルデの脇腹を払うように狙ってきていた。エイルはもちろん懐剣の動きに先んじてゼプスの柄でそれを払った。柄を使ったのは、余裕ではない。それが最短距離だったからだ。相手の動きがわかっていても、刀身を向ける時間はなかった。つまり、それだけの速度を誇るシーレンが規格外なのだ。
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