第四十五話 封じられた憎悪 1/5

「どうしたの?」

 カノナールの様子がおかしい事に気付いたエコー・サライエはそうささやくと、カノナールが凝視している先、即ち緩やかなすり鉢状になっている立ち見席の最上部に目をやった。確か、誰かを呼ぶような声がした方角であった。

 エコーにはその声が誰の名を告げているのかは聞き取れなかったが、どうやらカノナールはその声に反応しているようだということは見て取れた。

「ううん、何でもない。気のせい」

 エコーの呼びかけに我に返ったのであろう。カノナールは再び笑顔を作ると観客の呼び声に答え、エコーと手を取って舞台の客席側ぎりぎりまで歩み出て深いお辞儀をした後、その鮮やかな黄色い髪を軽やかに翻して舞台の中央へと戻った。


「カレンだ」

 エイルはもう一度その名を、今度は小さくつぶやくとエルデの手を引いた。

「行こう」

「え?」

「もっと近くで見るんだ」

 エイルはエルデの返事を待つことなく、エルデを強引に引っ張りながら混雑する人々の間をすり抜け、前方へと下りていった。

 アプリリアージェは止めようとして上げかけた手を下ろした。その視界に長身の女性の顔が映った。ラウである。

「私が追いかけます。念のためにファーンは残します。あなた方はここに」

 アプリリアージェはうなずきながらたずねた。

「カレンなのですか?」

 ラウは小さく首を横に振った。

「それは絶対にあり得ません。でも、私にもあの宿屋の娘にしか見えません」

 それでは、と目礼をしたラウはいつの間にか特殊な精杖である弦楽器ダラーラを抱いていた。それをポロンと一度だけごく小さく鳴らすと、すぐにエイル達の後を追った。おそらく何かのルーンなのであろうが、もちろんアプリリアージェにはラウが何をやったのかはわからなかった。

「シーレン達は気付いていないようです」

 視線をエイル達から切り替えたアプリリアージェにファルケンハインがそう言った。樽の上に乗っているとは言えダーク・アルヴ、そしてアプリリアージェはそのダーク・アルヴの中でも平均よりも小柄だ。全方向に視界が確保されているわけではない。アプリリアージェの位置からはニーム達三人の居場所が見えない事を知り、ファルケンハインはそう情報を提供したのだ。

「どう思います?」

 ニームと舞台を視界に捉えているファルケンハインは、そのままの状態で話題をカノナールの件に戻した。

「冷静になれと言っても無理でしょうね」

「確かにそっくりですね」

「演目が終わるまでエイル君がおとなしくしていてくれるといいんですが」

「エルデがいるから大丈夫でしょう。ラウも行きましたしね」

「そのラウが問題です」

「え?」

「もしもあの子がカレンだとすると、ラウの顔を見たらどうなるでしょうね?」

「あ……」

「ラウもそうですし、かつてエルデも同じ事を言っていましたよね。その言葉を信じるならそれはあり得ない事だそうです。むしろカレンでない場合の方がまずいかもしれません」

「どういう意味ですか?」

「蒸気亭に滞在した際、ルドルフに家族の事を色々聞いたでしょう?」

「ああ、あの『飲み比べで俺に勝ったら飲み代はチャラにしてやるぜ、黒髪の子猫ちゃん』と挑発されたどこかの部隊の司令官がワイン樽を一つ開けた時の話ですね」

「ええ。あの時は『子猫ちゃん』なんて言われたものだからいつもより調子が良くて」

「泣いてましたね、ルドルフの奴」

「ルドルフが結構な絡み上戸の泣き上戸、問わず語り上戸だという情報が得られた貴重な夜でしたね」

「それがカレンとどんな関係が?」

「覚えていませんか? カレンには弟が居ると」

 アプリリアージェのその言葉を聞いたファルケンハインは顔を引きつらせてアプリリアージェに視線を移した。

「あなたはもう潰れてたかもしれませんが、彼はこうも言ってましたよ。『カノンは女に生まれてきたらよかったって思うくらいカレンに似ている』と」

「まさか……」

「むしろ姉よりも優しい子で、本当は剣をとって人と争うような性格ではないんだ、とも」

 ファルケンハインは視線を舞台に戻した。

 そこでは不思議な箱から忽然と現れた美女二人、すなわちエコーとカノナールが、その場で次の演目をまさに披露しようとしていたところであった。

「少し嫌な予感がしますが……とりあえず我々はラウの指示に従ってここで成り行きを見守りましょう」

 ファルケンハインは眉間に皺を寄せると、うなずいた。


 舞台の中央では、カノナールが大きな剣を持って優雅な舞を披露していた。一通り踊り終わると、いったん袖に引っ込んでいたエコーが、三本の懐剣を交互に空中に放り投げながら踊りに絡んできた。

 どうやらそれは二人の美女の争いを表現している踊りのようで、大柄なエコーがやがて三本の懐剣を空中高く放り投げると、小柄なカノナールの剣を奪い取り、舞台の袖に投げ捨てた。落ちてくる懐剣のうち、一本をエコーが、残りの二本をカノナールが手にすると、再び二人は舞い始めた。だが今度の舞は明らかに戦いの舞で、二人はときおり懐剣同士を当てて軽い金属音を響かせた。

 舞はエコーが劣勢になり、彼女が持つ一本の懐剣を、カノナールが手にした二本の懐剣で取り上げるようにうち捨てるところで終了となった。

 しかしどうやらここからが演目の主題のようで、エコーは逃げる演技をしつつ、舞台の袖に消えた。

 追いかけようとするカノナールは、こんどは背後からエコーの高笑いを聞く。

 しかもその声は上方からだった。

 カノナールが見上げるのと同時に、舞台上部で止まっていた幕がさらに上がると、そこには一人乗りのゴンドラに乗ったエコーがいた。エコーは両手に一つずつリンゴを持っており、それを高く掲げた。

 観客から見やすいようにゴンドラが下降し、それが静止すると、カノナールは手に持っていた懐剣をエコーに向かって放り投げた。

 エコーの挑発に乗ったカノナールが、リンゴに向かって懐剣を投げつけたのだ。


 何度も見て知っている観客が多いのだろう。一番の見せ所ということで、観客席から雑音が途絶えた。一瞬の静寂のなか、湿った鈍い音がしたかと思うと、エコーが投じた懐剣は見事にリンゴを貫通して、ゴンドラの後にある書き割りに突き刺さった。

 どよめきと拍手が湧き起こった。

 懐剣が真剣である事を示すものだったからだ。


 拍手が少し鳴り止んだ頃合いをみて、エコーが手に持つもう一つのリンゴへ向かい、先ほどと同様にカノナールが見事に短剣を命中させた。

 再び湧き起こる拍手とどよめき。

 二本目の短剣も後ろの書き割りの板に深く突き刺さっており、短剣が二本ともに本物である事を無言で示していた。

 カノナールとエコーとの間の距離はさほどではないものの、それでも相当の名人でもデュナンの成人男子の握り拳ほどしかないリンゴの真ん中に命中させる事は困難だと思われた。

 しかもまぐれではない。二つとも成功させているのだ。

 観客は惜しみない拍手をカノナールに送ったが、演目はそれで終わりではなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る