第四十一話 悲しみの向こう側 5/6
「もうええ」
その場に訪れた沈鬱な空気を断ち切るようにエルデがキッパリとそう言った。
「リリア姉さんはしゃべりすぎや。らしゅうないな。そやからもう聞きとうない」
アプリリアージェは素直にうなずくとテーブルの上に置いたままの懐剣に視線を落とした。
「では話題を変えましょう。私を生かして何をしろというのですか? 賢者エルデ・ヴァイス?」
「軍に戻るっちゅうたのは?」
「あれは……」
アプリリアージェはエルデに指摘されて初めて思い出した様な表情をすると、すぐにその顔を苦笑に変えた。
「あの場の雰囲気作りに適当に口にした、っちゅうわけか? ウチらがシルフィード軍に加勢せなエイルの首をかっ切るで、ちゅう脅しに信憑性を持たせるための前振りかいな?」
アプリリアージェは声を出して力なく笑った。
「そう言われると我ながら陳腐過ぎて穴があったら入りたいくらいです」
「でも、ピクサリアには行くんでしょ?」
エイルが声をかけた。
「あの三つ編みの……シーレンに合うんですよね? それは本当なんでしょう?」
だが、アプリリアージェの反応はエイルにとっては意外なものだった。
「エイル君は本当に私の気持ちを全然わかっていませんね」
「え?」
「だから、どの顔を下げてシーレンに会えというのですか?」
一瞬でアプリリアージェの顔が凍り付いた。声には怒りではなくむしろ憎悪が感じられた。だがそれはエイルに向けられたものではなく……。
「シーレンから全てを奪い取ってまで得た研究成果をつぎ込んだリーゼを……私は守れなかったのに! 私はシーレンに約束したんです。あなたの半生のおかげでリーゼが生きている。私はそのリーゼを守る事をあなたに誓う、と」
ファルケンハインはもうアプリリアージェの話を聞いていられなかった。
自らが持っていた様々な記号や断片が一気に形を成していく。その完成型を見たくなかったのだ。
だが、もう手遅れだった。
知らなくてもいいものが、脳裏に焼き付いていた。むりやりに焼き印を押されたかのような痛みと恐怖と怒りが渾然とした気分に、吐き気が鳩尾(みぞおち)にこみ上げる。
シーレン・メイベルの人間らしい記憶は、実はル=キリアに来てからのものしか存在しないのだ。ファルケンハインはそれを知っていた。
精神が崩壊した、ただ目の前にいる敵を倒す為だけの人形でしかなかったシーレンに、それまで育ってきた記憶というものはなかったのだ。
だからル=キリアで感情が生まれ、その制御ができるまでに精神が回復した後に体験した記憶が、「金の三つ編み」の人としての記憶の全てと言っていい。
アプリリアージェはそのシーレンに誓ったと言った。
だが、勿論シーレンと誓いを交わし合ったわけではない。人とも呼べぬ存在のシーレンに、自らが「勝手に」誓いを立てただけであろう。
そしてそれはシーレンだけに対して立てた誓いではないことも、また確かであろう。
なぜならその人体実験に供された人間はシーレンだけではないのだから。シーレンは唯一の生き残りなのだ。
完全に記憶を失っているからこそ生を許されたのかもしれない。だがそこにあるのは温情ではない。戦闘能力は飛び抜けていたから、殺すのではなく生かして「活かした」のだ。
シーレンがフェアリーでなかったなら?
戦闘員としての能力が非凡であったなら?
ファルケンハインは自らの思考をそこで強制的に絶った。
「たら」や「れば」はない。
エイルとエルデはシーレンに出会った。そのシーレンは生きていて、今の彼女は自分の感情と自分だけの記憶で一人の人間の物語を綴っているという事。それが事実の全てである。ならばアプリリアージェがシーレンに対して引け目を感じることなど何も無い。いや、アプリリアージェが口にした言葉は、むしろシーレンの矜持を傷つける行為ではないのか?
そこまで考えたファルケンハインは、そこでふと、先ほどのアプリリアージェの言葉を思い出した。
「また死ねませんでした」
アプリリアージェはファルケンハインに向かって確かにそう言った。
「また」という言葉、つまり以前に一度あった事件を知るファルケンハインは、初めて該当者である「双黒の左」ことフリスト・ベルクラッセのアプリリアージェに対する気持ちに触れることができたような気がした。
かつて、ある作戦でフリストがちょっとした失策をした。ル=キリアでは自らの失敗は自らの命で購うことが不文律であった。
つまりその場にいた数名の仲間を自らの失敗で窮地に追いやる可能性を敵に与えたフリストは、自らが盾となって時間を稼ぐことで失地挽回を図ろうとしたわけであるが、それはほとんどその場で自らの命を差し出す行為であった。
ル=キリアの司令官であるアプリリアージェ_ユグセルは部下に対して厳しくこう命じていた。
そのような場合はためらわずに仲間を犠牲にしろと。
ファルケンハインがル=キリアに所属してからは、実際の戦闘に於いてそのような場面に出くわすことはほとんどなかった。
記憶を辿ってもフリストが顔に大きな傷を負う事になったあの事件が唯一のものだった。
だが、その「いざという」その場で禁を犯したのは誰あろうユグセル司令官だったのだ。
しかも自らが継続中の戦闘を無視して、つまり敵から完全に目を離してフリストの窮地を救うべく、ル=キリアで禁じられた行動を「犯した」のである。
結果としてフリストはアプリリアージェの機転で九死に一生を得た。だが、その見返りとして今度はアプリリアージェが敵に命を差し出した格好になった。
その出来事のてんまつだけを書けば、アプリリアージェは重傷を負い、フリストは顔面に見にくく大きな剣創(けんそう)をつくり、ル=キリアは欠員を生じる事無く作戦を終えた。
その時からフリストはアプリリアージェに対してあからさまな反抗態度をとるようになった。勿論軍人であるから上官の命令に逆らうことはない。
だが、それまで心酔していたといっても良いほどのフリストの態度が激変したのだ。
フリストは仲間であるファルケンハイン達に隠すことなく自らの思いをぶつけていた。
「司令は愚かな人間である」
それが彼女の主張であった。
「あのままでは、いつか私達は司令のせいで全滅する」
はばかることなくそんな事さえ口にしていた。
治せると判断されていた顔の傷を敢えてそのままにしていたのも、おそらくはフリスト流の当てつけなのであろう。
フリストはあの時、自分を見捨ててでもアプリリアージェには有言実行の人であってほしかったのだろう。普段の冷徹な指示を、自らが行動で示す一貫した存在であって欲しかった。つまり、アプリリアージェはフリストの理想を完全に具現化した存在でなければならなかったという事である。
その理由は単純だ。フリスト自身がそうなれない事を自覚していたからに他ならない。同じダーク・アルヴとして崇拝に近い感情を抱く相手が、自分と同じ甘くて弱い人間であってはならなかったのだ。
勿論それはフリストの勝手な思い込みであり、アプリリアージェが関知するところではない。
だが今のファルケンハインには、フリストの気持ちがわかる。
アプリリアージェは「そんな事」で自らの命を危険にさらすわけにはいかないはずなのだ。自分に何かがあれば、テンリーゼンはどうなるのだ?
他人の命など意に介さず切り捨てなければならないほど強い目的がアプリリアージェにはある。フリストはそれを察していたのだろう。その目的に対して純粋であろうとするアプリリアージェに、だからこそあこがれたのだ。
だがテンリーゼン以外の人間を救う為に、アプリリアージェはその唯一の命を投げ出した。
フリストは自分の為にアプリリアージェがその命を省みなかった事がどうしても許せなかったに違いない。
いや、ここは言葉を選ぶべきであろうか。つまりフリストはアプリリアージェが許せなかったのではない。自分が許せなかったのだ。自分が些細な失態を演じなければアプリリアージェの「本性」を知る事は無かったのだから。
フリストはそんな思いを屈折させ、やり場のない感情を矛の形に変え、その切っ先をアプリリアージェに突きつける事で心の平衡を保っていたのであろう。
考えるまでもなく、フリストはテンリーゼンの秘密を知っていたわけではない。だがアプリリアージェの本当の戦いがル=キリアにはない事には気付いていたのだ。
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