第三十九話 二つの碑文 3/6

「それで」

 エルデはアプリリアージェの目をまっすぐに見て尋ねた。

「リリア姉さんはシーレンには会わへんっちゅう事なんか?」

 その問いかけに対して、アプリリアージェはすぐには答えなかった。

 その一言。エルデにしてみれば、それは単純な疑問だったに違いない。遠回しにシーレンは恐るるに足らずと告げた上官の言葉に対して「会いたくはないのか?」と問うたのだ。

 だが、その一言がアプリリアージェの微笑という名の仮面を剥がす事になるとは、さすがに予想すらしていなった。

「誰が!」

 激しい声が今に響いた。それはほとんど怒鳴り声だった。

 見れば、声の主であるアプリリアージェの顔からは、笑顔が消えていた。

 それどころか、おそらくエイル達は初めて怒りに満ちたアプリリアージェの姿を見ていた。怒り、そしてアプリリアージェは泣いていた。

「いったいどの面を下げて、シーレンに会えばいいのですか?」

 アプリリアージェの悲痛なその声に、居間にいた全員が息を呑み、即座にその意味を知って言葉を失った。

 ティアナは慌ててファーンの後ろに身を隠し、小さく震えていた。

「ネスティを、リーゼを死なせておいて、上官が部下におめおめと生き恥を晒せというのですか?」

「リリアさん……」

 名前を呼んだものの、エイルはそれに続く言葉が出なかった。「あの時」の情景が脳裏に浮かんできたからだ。

 アプリリアージェはその時の敵も、そしてアキラをも全く責めなかった。アプリリアージェが責めるべき相手は自分ただ一人なのだろう。エイルはそれを肯定することも否定することもできなかった。

 同じ気持ちではないのかもしれない。だがアプリリアージェの慟哭はエイルの心の中の音叉に共鳴した。

 そして震える心は、ある思いをエイルに突きつける。

『エルネスティーネかテンリーゼンかのどちらかが、エルデだったなら?』と。

 アプリリアージェにとっての二人は、エイルにとってのエルデのような存在に近いはずであった。であればエイルがもしもアプリリアージェの立場になった時、正気でいられるだろうか?

 暴走。

 想像は簡単だった。

 エレメンタルとしての力は間違いなくエイルの理性を簡単に粉砕することだろう。そしてそうなったエイルはいったいどうなるのだろうか?


 おそらくエイルのその心の動きは一瞬であったろう。暴走という言葉が頭に浮かんだのも、自らがエレメンタルであることを再確認したのも、そしてここ二ヶ月、エルデの見守る中で「力」の制御と使い方を学び、訓練してきた事を思い出したのも。


「ああっ!」

 エルデの叫びがエイルの耳に届いた時には、エイル自身もその場で何が起こっているのかを理解していた。

 部屋全体の空気が異質化していた。露出している素肌がざわざわとして、産毛が逆立つのを感じる。

 見ればアプリリアージェの黒髪も逆立っていた。

 普段であれば間に合わなかったに違いない。だが、エイルは準備ができていた。すでに言葉が頭の中に浮かんでいたからだ。

「暴走」

 そうだ。

 アプリリアージェの力が、本人の制御を失い暴走しているのだ。

 ずっと抑えていた感情は、エルデの何気ないたった一言の問いかけにより理性の壁を越えて爆発しようとしていた。

「ああああああああっ!」

 アプリリアージェの慟哭とも叫びともつかぬ声が居間に響き渡った。

 エイルはそれを見て、意識をアプリリアージェに集めた。同時にエルデが何かのルーンを唱え始めるのが視界の端に見えた。だがその詠唱の終了を待たず、先にエイルの赤い球体がアプリリアージェとその場にいた全員を包みこんだ。

「できるだけ小さくっ」

 エルデは詠唱を途中で解除するとエイルにそう指示を投げ、自分は泣き叫ぶアプリリアージェに向かってぶつかるように飛び込むと、その小さな体を強く抱きしめた。

 叫ぶアプリリアージェに向かって、しかしエルデは何も言わなかった。

 ただ、抱きしめた。

 そんなエルデの細い肩を見て、エイルは改めて思った。

 エルデ・ヴァイスは根っからのハイレーンなのだ。そして《白き翼》という名前は、他の亜神……いや、三聖の名と等しく、意味があるものなのだろうと。

 悪口(あっこう)使いで派手な炎の攻撃ルーンを唱え、まるでエクセラーの用に振る舞うエルデもまたエルデであろう。だが、自らの思いと体温で相手をただ癒やそうとする穏やかで優しいエーテルを纏うエルデが、目の前の瞳髪黒色の娘の芯になっているに違いないと思うのだ。


 それはイオスの屋敷に来てから、いや、エルデと結ばれてから強く実感していることだった。エイルに対する言葉のとげがすっかりなりを潜め、別人のように自分に甘えかかるエルデに最初は面食らったエイルだが、よくよく考えると、その本質が今までと大きく変わったわけではない事に気づいた。

 エルデのそれまでの言葉や態度は本質をくるりと覆う外套のようなものなのだ。言葉は悪いし、突き放すような物言いが多いが、エルデは少なくともエイルや自分がいったん仲間と認めた者たちに対して残酷であったり冷徹であったりしたことは一度も無い。エルデと同じ体を共有していた時代も、彼女はまずエイルを守る事を最大の目的にしていたのだ。

 エイルの意識を圧迫しないように、無事にフォウへ送り届ける……ザルカバードの庵を巡って龍珠(りゅうじゅ)と呼ばれる宝鍵を完成させ、かけられた「喰らいの呪法」を解く……それは嘘では無かったが、目的では無く手段に過ぎなかったのだ。

 エイルをフォウへ返した後は、そのまま時のゆりかごで永遠の眠りにつく覚悟で行動していたのだから。

 そしてなにより、自らの体を取り戻した後も、エルデは自分を最優先にした事はエイルの知る限り一度も無い。言葉こそ合理性を最優先させる冷たいものが多いが、やっていることは不合理な事ばかりだ。

 エイル達と一緒に現世に存在する事がそもそも不合理であろう。時のゆりかごとは言わず、ヴェリタスに居れば安全は保たれるはずなのだ。

 ラウの頼みでファーンを救った事も同じだ。一人を救うことが複数の人間を窮地に陥れる可能性があるにもかかわらず、最も非合理な道を選択したのだから。

 傷ついた者を救わずには居られない存在、そしてその力を有する者。それがエルデ・ヴァイスという名の瞳髪黒色の美しい女性なのだ。

 そして同時に自らが守ると決めた者達に敵対するものに対しては、その圧倒的な力を使うことをためらわない狂気に近い意思を有している。


(だから、きっと)

 エイルは確信していた。

 沈静ルーンを使っておとなしくさせることも、眠らすこともエルデならば簡単にやってのけるに違いない。

 だが、それではアプリリアージェを癒やし治すことはできないであろう。沈静ルーンを使えば、時を置き、冷静さを取り戻すことは間違いないであろう。

 だがそれは新しい傷を心の奥に圧縮して溜め込むだけのことだとエイルは思った。そしてエイルと同じ事をエルデも考えたからこそ、この場所でエルデの「思い」で心に残る傷の形を少しでも丸く変えようとしているのだ。

 どのみち傷は残る。それならば、より穏やかな傷であって欲しい。少なくとも尖った傷が、別の傷を産み出さぬ程度に角を落としたい。

 時間がそれを成すのを待てばいい。おそらくはそれが合理的な考え方であろう。だがエルデは合理的な解を良しとはしなかった。いや、彼女にはそんな事はできないのだ。

 今のアプリリアージェは見ていられないと、エルデはただそう思い、自分がやりたいことをやったのだ。衝動と言い換えてもいい。

 それがエルデの芯、生来のハイレーンの本質なのであろうとエイルは思う。

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