第三十九話 二つの碑文 4/6

 そう思った時には、意識よりも先に足が、そして腕がエイル自身を動かしていた。

 アプリリアージェを正面から抱きしめるエルデの背中を、気がつけばそっと抱きしめていたのである。

 それを見たもう一人のハイレーンが、光の結界の中心部分に歩を進めた。

 それまで目の前で繰り広げられる現象をただ見つめていただけの仲間の中にあって、最初に動いたのがファーンだった。

 同じハイレーンとして同調するものがあるのか、それとも自分よりも圧倒的に高位にあるハイレーンに従おうとしただけなのか、ファーンは何も言わず、無言でただアプリリアージェの背中をそっと抱きしめた。

 ファーンに背中を抱かれたアプリリアージェは、一瞬だけ体を強ばらせたが、泣き止む事はなかった。

 それでも少しだけ変化があった。

 大柄なアルヴのファーンと、ピクシィのエルデに囲まれるような状態のアプリリアージェが、顔をエルデの胸に埋めてきたのだ。

 それに気付いたエルデは、目を細めた。エルデの目にも既に涙の筋がいくつもあった。声は出さずとも、エルデもまた悲しみと痛みを涙に変えていたのであろう。アプリリアージェとエルデは、有する背景は違えど、共有できる感情の名前は同じなのだ。


 そこへ今度はティアナが加わった。ファルケンハインに手を引かれ、エイルの背にそっと手を置く。その両肩を優しくファルケンハインが抱いていた。

「大丈夫だよ、小さいお姉ちゃん」

 エイルの背中越しに、ティアナはアプリリアージェに語りかけた。

「黒いお姉ちゃんも、黒いお兄ちゃんも、ファーンも……みんなが、きっと小さいお姉ちゃんの事が好きだから、きっと大丈夫だよ」

 その言葉を聞いたラウがその輪に加わった。

 何も言わず大きく手を広げると、ファーンの背中を抱きしめた。

 残ったベックはファルケンハインと顔を見合わせると、何も言わず、ただうなずいてその肩に手を置いた。

 エイルが作ったエレメンタルの光は、全員を包み込むだけの大きさに縮んでいった。

 半休状の赤い結界は、まるで全員を守る殻のように光を増して、やがて白く変化していった。

 それに呼応するかのように、エイルの胸に顔を埋めて泣いていたアプリリアージェが、静かになっていった。


 どれほどの時間が経ったのか、誰にもわからなかった。退屈が嫌いで幼児のように駄々をこねるティアナでさえ、何も言わずに目を閉じ、アプリリアージェの鳴き声をただ聞いていた。

 嗚咽は普通の泣き声になり、それはやがて小さなすすり上げに変わっていった。

 そして……。

「ごめんなさい」

 ポツリと、アプリリアージェがエルデの胸でつぶやいた。

 ほんの一瞬の間の後で、エイルとエルデがほぼ同時に口を開いた。

「あやまらんでええ」

「あやまらないで下さい」

 申し合わせたわけではないのに、二人はほぼ同時にまったく同じ事を口にした。

「え?」

 エイルとエルデは一瞬バツが悪そうに顔を見合わせたが、すぐにうなずき合った。

「リリア姉さん、みんなを見てみ?」

 エルデはそう言うと、服の袖で自分の顔を拭った。

「みんな、リリア姉さんと一緒に泣きたかったんや。ネスティとリーゼの事で、一緒に泣きたかったんや。そやから、リリア姉さんがあやまる事なんかなにもないんや」

「でも私は、もう少しでみんなを……」

「何も起きへんかったやろ? 今回はエイルが止めた。ウチでも止められる。ウチやのうても、ラウもファーンもいる。ファルやティアナは……ついでにベックもそんなウチらを間違いなく応援してくれる。誰もリリア姉さんを暴走なんかさせへん。そやからそれも、あやまる必要はないんや」

「俺は『ついで』かよ」

 エルデの後方でベックが遠慮がちに鼻声混じりの抗議をした。

「やかましい。今、ええとこなんやから、涙声でしょうもないツッコミとか、せんといて」

「お前だって泣き声じゃないかよ」

「う、ウチは泣いてへんっ。これは鼻の調子が悪いだけや」

「そんな見え透いた事、ふつう言うか?」

 自分が涙ぐんでいた事実を知り、バツが悪く思っていたベックは、照れ隠しのつもりで茶々を入れてきたが、エルデはそのベックに普段通りに反論して見せた。

 勿論それはエルデらしい意図しての行動であったろう。そしてその意図そのものがアプリリアージェに伝わることをもまた意図していたに違いない。


「ふふふ」

 意図が伝わったのかどうかは本人でなければ知るよしもないだろう。だが、アプリリアージェは小さく声に出して笑うと、

「ありがとう」

 はっきりとした声でそう告げた。

 その声には力があった。皆の知るアプリリアージェという人格がよく見える声であった。その声はアプリリアージェを中心として集まった一同に安堵を生んだ。

「それにしても」

 アプリリアージェはエルデに顔を埋めたままで続けた。

「エルデにこうして抱かれているのはなかなかに気持ちの良いものですね」

「ちょ……リリア姉さん、そろそろ離れよか」

 アプリリアージェのからかいは、もちろん赤面しやすいエルデの顔を一瞬で真っ赤に染めた。

「あら、抱きついてきたのはエルデの方じゃありませんか。勝手に抱きついておいてそろそろ離れろとはあまりにご無体な言いよう」

「いや……そう言うたかて、もう大丈夫そうやし……」

「嫌です。いい匂い……あなたはサクランボの花の匂いがしますね。それに柔らかくて暖かくてとっても気持ちがいいです。もう、ずっとこうしていたいです」

 アプリリアージェは口調を幼児のそれに変えると、ぐりぐりっと顔をエルデの胸にすりつけて甘える仕草をしてみせた。

「エイル君がうらやましいですね。いつでもこんな事をしてもらえるんですから」

「え? いやいやいやいや」

 いきなり自分におはちが回ってきたエイルは、言葉に窮した。代わりというわけではないのだろうが、エルデがさらに顔を赤らめつつ、小声でつぶやいた。

「いや、どっちかっちゅうとむしろ逆で……。最近はうちが甘えてばっかりで……」

「あらあら」

 エルデの言葉に反応して、アプリリアージェはようやく顔を上げた。

「それはもったいないですよ、エイル君。こんなに気持ちがいいのに甘えたことがないのですか? 本当にお二人はちぎりを交わした仲ですか? もしかしてエイル君はエルデがサクランボの花のいい匂いがするのも知らない、とか?」

「いや、もちろんそれは知ってます」

 エイルの即答に、アプリリアージェはクスリと笑った。

「オホン」

 エイルの背後からわざとらしい咳払いが聞こえた。ベックである。

「のろけるのも大概にして欲しいもんだな。全く、色ボケのガキはこれだからな。単身赴任の俺とか、ファルとかに気を遣うこともできねえのかよ?」

 悪口ではあったが、そこにベックの悪意は感じられない。これもまたベックなりの場の和らげ方なのだ。

 エイルはベックの指摘を受けて自分の言葉の持つ解釈に思い至ると、エルデ同様、顔を紅潮させて、頭を掻いた。

「それから、もういいんじゃないか?」

 これはファルケンハインだった。エイルの結界の事を指しているのだ。

 ティアナの件ではさすがに動揺を隠せなかったものの、持ち前の冷静さをすぐに取り戻したのはさすがであった。それだけにエイルはファルケンハインに対しては特に気を遣ってしまうのだ。それなのにファルケンハインの存在すら忘れていた自分に深く恥じ入った。

「そうだな」

 エイルがそう言うと、あっという間に光の半球は消滅した。それはあっけないほど突然で、全員が夢でも見ていたかのようにあたりを見回したほどだった。

「お姉ちゃん、笑ってる」

 そんな中、ティアナがアプリリアージェのそばに来て、そう言った。

 その声で改めて全員が小さな、そして頼れる司令官の表情を見た。そこにはいつもの微笑をたたえたアプリリアージェが居た。いつもと違うのはまぶたの周りが赤く腫れて、頬にはまだ涙のあとが見つけられることくらいであった。

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