第三十七話 クランとペダン 5/5

「五十年でできあがるのなら、お前はドライアドの子供達より優秀だという事だな」

 それが慰めの言葉になるのかどうかはシーレンにはわからなかった。だが目の前で肩を落とす小さな大賢者を褒めてやりたいという思いがその言葉になって口をついた。

「五十年かけて、やっと文法の基本が出来る程度だろう。グラムコールとして体系化するにはさらに五十年以上かかるだろうな」

 シーレンの言葉をニームが慰めと捉えたのかどうかはわからない。少なくとも哀れみではないと感じてはいたのであろう。継いだ言葉には諦念とも自嘲ともとれる苦々しい響きがあった。

 ジナイーダはシーレンと違い、グラムコールを習得する事の困難さを、身をもって体験している。だからニームの話が途方も無い高みにある事が理解できた。ジナイーダとて、グラムコールの一部を習得しているに過ぎない。一つのグラムコール全てを理解・習得できるルーナーはほんの一握りで、それこそ一生涯架けて到達する最終目標のようなものなのだ。そのグラムコールを一つと言わずいくつも理解・習得した上でそれ以外のまったく新しいグラムコールを創造する事など、考えるだけで目眩がしそうだった。

「昔話をしたいわけでも、自分の失敗を慰めてもらいたいわけでもない」

 ニームは二人のやや神妙な雰囲気にため息をつくと、少し高い声でそう言った。

「だから私にはわかるという事だ。あれは、私の知るどのグラムコールにも似ていないルーンだった」

「言われてみれば、ハイレーンの治癒ルーンにしては、あの詠唱は短すぎますね。そんな治癒ルーンがあるなんて聞いた事がありません」

 ニームはうなずく。攻撃系ルーンよりも強化系ルーンよりも相対的に長くなるのが治癒・回復系ルーンである事はルーナーとしての常識であった。単一もしくは二つ程度の精霊波を操るエクセラーやコンサーラとは違い、四種類すべての精霊波を等しく制御する必要のある治癒ルーンを使うハイレーンの詠唱は、精霊波の調整をこまめに施す必要がある為に、総じて長いのだ。

「まったくでたらめなグラムコールだ。しかも前文や契約文がどうなっているのか皆目見当がつかない。私には複数の認証文をつなげたものに聞こえた」

「え、それって?」

 ニームの使う精霊陣を使ったルーン短縮法と同じではないかとジナイーダは思った。

「そうだな。私のやり方にそっくりだった。だが私と違うのは、あの場には精霊陣などなかった事だ」

 ニームの言葉には再び不機嫌な色が漂っていた。

「精霊陣と言えば、あの時羽毛のようなものが降ってきたな」

 シーレンが思い出したように言うと、ニームはすかさず反応した。

「あれは精霊陣の類ではない。澱のようなものだな」

「澱?」

「いや、澱という表現は正確さを欠くな。そうだな……わかりやすく言えば、おそらくエーテルが詠唱者に過剰反応して視覚化したものだ。いや、視覚化という表現も適当とは言えないな。あれは見えただけではなく、実際にあの時、あの場所に存在した物だからな。つまり純粋な機能を有して具現化した、いや、もっと簡単に言えば、ルーンが具現化したものだろう」

「高位のハイレーンはそんな事までできるのですか?」

 驚いたジナイーダに、ニームはしかし大きく頭(かぶり)を振った。

「そんな話は聞いた事もない。理論的に考えるなら、おそらくルーナーの詠唱にその場のエーテルが共鳴反応を起こして、飽和したものが視覚に捕らえられたという事なのだろうが、それはあの女がそこまでエーテル側に近い存在になっていたという事になる。だがそうなると……」

「さっきから相当に難しい話ばかりだな。つまり、どういうことだ?」

 シーレンがニームの解説を途中で止めた。ニームの知識は普通の人間を基準とすると、ある意味で反則的なほど広くて深い。思考がその中に沈み込むと、他人には理解できない専門領域の仮説や考察をつぶやき始めるのだ。

 シーレンの指摘でニームは顔を上げた。だが、先に答えたのはジナイーダであった。彼女も末席とは言え賢者である。その知識は常人とは全く違う地平にある。従ってシーレンとは違い、その時ニームが口にしていた程度の内容は充分に理解できていたのであろう。

「あの瞳髪黒色の女性は、実は人間ではなく、純粋なエーテル体……?」

 ニームはうなずいた。

「しかも四種類全てのエーテル波が完璧な均衡を保ったエーテル体という事になる。そうでなければあんな高度な治癒ルーンが使えるはずがない」

「ハイレーンは四種類全てのエーテルを完全に均衡させる能力が求められるんです。治癒ルーンが高位になればなるほど、ルーンの強さはもちろん、それ以上に均衡の完璧さが重要になると言われています」

 ジナイーダはニームの言葉に対してそう解説をした。もちろんシーレンにわかりやすいようにである。

「ふむ、ハイレーンが特別だという事はなんとなくわかった。それで?」

「つまり、そんなエーテル体など存在しない。あり得ない、という事ですね」

「なるほど、それじゃ簡単じゃないか。エーテル体でなければ、あのピクシィは本当の人間だという事だ」

 シーレンの言葉に、ニームは大きなため息をついて見せた。

「それはもっとあり得ない」

「おいおい」

「だからさっきから私はこうやって堂々巡りをしているのだ」

「堂々巡りをしていたのか?」

「私だってしたくてしていたわけではない」

「一人だけで抱え込んでいたのならそう思われても仕方が無いな」

「うーっ」

「あの……」

 ジナイーダが険しい顔で言った。

「あの方はひょっとすると新教会の関係者……でしょうか?」

 シーレンの顔に緊張が走ったが、すぐにニームが否定した。

「可能性がないとは言わない。でも新教会のハイレーンがなぜ剣士一人を護衛につけてエルミナあたりでうろうろしている?」

「それは……」

「新教会の僧正であれば、こちらがルーナーだとわかった時点で正教会の人間かどうかを確かめに来るとは思わないか?」

「そうですね。新教会にあれほどのハイレーンがいたなら、堂頭が離しはしないでしょうね」

「そう言う事だな。それから瞳髪黒色のハイレーンもそうだが、あの若いデュナンの剣士も気になる」

「ニームさまもお気づきでしたか?」

「ほう、ジーナも気付いていたか? お前にエーテルが見えるとは知らなかった」

「え?」

「違うのか?」

「いえ、私はニームさまとあの剣士の目元が少し似ているな、と」

「は?」

「ああ、それは私も思った。目元と言うよりも、ちょっと吊り上がっていて、相手をにらむ時の眼光の鋭さがそっくりだ。簡単に言うと目つきの悪さが他人とは思えなかった」

「な、なんだと?」

 一瞬で怒気をはらんだ表情になったニームは、そのままシーレンをにらんだ。

「それそれ、その顔だ」

「ええ?」

 ニームは思わずジナイーダを見上げた。

「あら」

 ニームの顔をまじまじと見ていたジナイーダがそう言って目を見はった。

「睨む時の目つきもですが、その気になって見ると口元がそっくりですね」

 ニームは思わず顔を上気させて口元を手でふさいだ。

「何を言って……」

「確かに。私はあの少年を見ていて、ずっと居心地が悪いというか、妙な既視感というか違和感を覚えていたんだが、そのわけがわかった」

「え? え?」

 自分の顔をじっと見つめるジナイーダとシーレンの顔を見比べながら、ニームは真っ赤な顔でうろたえていた。

「大丈夫ですよ、ニーム様」

 ジナイーダは、冷静さを失ってうろたえるニームを思わず抱きしめると、そう言った。

「ニーム様の可愛らしさはあの剣士には全然ありませんから」

「いや、ジーナ、それよりあの剣士は炎のフェアリーだという私の話を聞いてくれ」

「はいはい。このままでも聞けますから、どうぞ続きを」

 シーレンは姉と妹のじゃれ合いを見守る母親のような微笑を浮かべて二人の様子を眺めていた。

「炎のフェアリーがいたから、あの場は深追いを避けたということか?」

 シーレンの言うとおり、ニームは安全策をとったのであろう。ルーナーと違い、フェアリーは能力を一瞬で発動する。

 ニームにしろシーレンにしろエイル達から敵意や殺意は感じなかったが、あの二人がお互いに強く相手を思う気持ちは痛い程伝わっていた。ニーム達がエイルかエルデのどちらかに手を出そうとしたなら、双方が相手を守ろうとして即座に最大の反応をするのは容易に想像ができる。相手の、とくにフェアリーの能力が未知の場合、手を出すのは賢いやり方とは言えないだろう。


「来るかな?」

 馬車の窓に広がるピクサリアの風景を眺めながら、シーレンがぽつりとそうつぶやくと、ニームは自信たっぷりに答えた。

「絶対に来る。私はそう思う」

「そうか」

「うん」

 ジナイーダに抱かれたまま、困ったような顔でそう答えるニームの顔を、シーレンは目を細め、少しまぶしそうに見つめた。

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