第三十二話 エコー・サライエ 1/5

「おっと。これはすまぬ」

 抱き合ったエコーとリザが震えながらが見つめる「声の主がいるはず」の場所から、またしても声が聞こえた。

 同じ声だ。

 落ち着いた……いや、沈んだという形容の方がふさわしく感じる若い女の声。

 その声のする位置、つまり口があるであろう場所はエコー達よりかなり低いところから聞こえていた。

(子供?)

 恐ろしさで体が震えているにもかかわらず、エコーはそんなことを分析している自分を見つけて驚いていた。

(一体、誰?)

 だがエコーとリザはそれ以上の推測をする必要がなくなった。

 声の主がその姿を現したのだ。

 それはまさに突然で、瞬きする間もなく一瞬で風景が変化したようなものであった。

 エコーの目の前に立っていたのは、焦げ茶色の髪と茶色の瞳を持つ、小柄なデュナンの少女であった。

 意志の強そうな美しい顔立ちであったが、少女はむしろその髪型が特徴的だった。

 基本的には襟元までの長さで揃えてあるが、左右の耳の前側から垂らした髪だけが胸の上辺りまであった。少し長く伸ばしたその髪は数本の布とともに編み込まれていた。まるで結布を巻く為に伸ばしているかのような髪である。


 その少女の姿を見て、エコーは今朝方、カノナールがつぶやいた言葉を思い出した。

(人の形をした精霊……)

 エコーは合点がいった。

 確かにカノナールの言葉通り、精霊の様に可愛らしく可憐な少女だったのだ。

 だが、エコーは首を横に振って頭に浮かんだその妄想を振り払い、先入観を捨てるように努めて、少女を改めてじっくりと観察した。

 その頃には震えも収まり、代わって持ち前の好奇心がむくむくと頭をもたげていたのだ。

 当初その少女は十歳程度の幼い少女に見えた。

 もちろんそう思った理由は少女があまりに小柄だったからだが、エコーはすぐにそれが間違いである事に気付いた。

 少女は確かに小柄である。デュナンというよりはどう見てもアルヴィンのような体つきで、そう思って見れば顔つきもアルヴ族特有の、人形のように整った、一見すると表情のないそれである。

 だがその少女が見た目よりかなり上の年齢だとエコーが感じたのにはアルヴィンだからという以外にもいくつか理由があった。

 忽然と現れた少女が纏っている服はふんわりとした紗のかぶり物だけで、要するに寝間着姿であった。上質な紗の寝間着の常で、少女の体は朝の斜光を浴び、その全てが透けて見えていた。

 つまり、体つきを見れば子供ではないという事がわかるのだ。

 体全体は柔らかそうな曲線で整えられ、腰はしっかり張って丸みを帯び、胸などは相当に豊かで、よく見れば下腹部の翳りも見て取れる。つまりそれは間違っても幼女の体つきではなかった。

 さらにその少女を「大人」としてエコーに印象付けたのは、体つきに加えてその表情が子供のそれではなかったからだ。

 あどけなさとは無縁とも思える少女の顔つきは、落ち着いてからよく見ると人形のような無表情などではなかった。そこには強い自我と自信がにじみ出ているようにエコーには思えた。

 さらに茶色の瞳を持つやや吊り上がった目には命のもつ強さに比例した輝きが見えた。


 一見すると綺麗な子供……おそらく男の目にはそう写るに違いない。

 でもこの子は間違いなく成人であろう。

 エコーはそう結論づけた。

 要するにエコーは、何もないところから少女が突然現れたという、極めて信じがたい現象についてあれこれ考えるのをあっさり放棄して、少女の観察と分析に全霊を傾けていたのだ。

 初めて会った人間を値踏みしてしまうのはエコーの生きてきた背景や今の仕事を考えると無理からぬものだったが、それでも彼女がこの世界で生きて行く為には必要なものだった。事実エコーはそれを悪いとは思っていなかったし、その観察眼には自信さえ持っていた。そして何よりその人物が自分にとって「害をなす者」かどうかという嗅覚についてはほぼ間違いなく当たる……少なくとも害を成すと思った人間はほとんどがそうだったという実績があった。

 言い換えるならエコーは自分を守る本能が人よりも強く、持っている感覚を動員する事によって本能の命令を完遂するすべを知っていたと言える。

 要するにエコーには、相手が誰かを認識するまで自我を保てる強さがあった。

 しかし一方、リザの中にはエコーのような安全装置は存在しないようだった。エコーがふと気づけば、リザは今まさに気を失って、ゆっくりと倒れて行くところであった。

 いや、それも一つの安全装置と言えた。受け入れられない事態に遭遇した時、とりあえず精神が崩壊する前に意識を絶つ方向に働く装置である。リザの立場から言えば、エコーとリザの安全装置の種類が全く違ったというだけの話になる。


「リザっ」

 気絶してそのまま地面に倒れてゆく友人の名を呼びながら手を伸ばしたエコーだったが、気付いた時は既に遅く、リザは排水溝に向かって加速しながら崩れ落ちていった。

 そのまま倒れたら、頭が排水溝の角に当たってしまう恐れがあった。そうなると大怪我、それも重篤な怪我を負う可能性が高い。

 だが……。

 エコーは再び信じがたい光景を目の当たりにした。

 エコーが悲鳴を上げるよりも先にリザの体が空中で制止したのだ。

 いや、よく見ると足は地面についていた。上体はほぼまっすぐで地面から斜めのまま……きわめて不安定な状態で止まっているのだ。


「うーむ」

 リザを見て、人型の精霊、いや謎の少女は小さく唸ると頭を掻いた。

「しまったな」

 少女のその自嘲気味のつぶやきに、別の声が反応した。

「『しまったな』 ではないだろう」

「え?」

 エコーは再び驚いて声を出した。

 今度の声はリザの上の方から聞こえてきた。

 と、思うまもなくそこに一人の少女の姿が現れた。

 それはリザを抱きかかえるようにして支えている、朝の光を受けて金色に輝く長い長い三つ編みを持つ、これまた小柄な少女だった。

 いや、またしても少女だとエコーが一瞬思っただけである。

 今度は本物だった。

 少しだけ尖った耳先。

 最初に現れた少女をにらむように見つめる深い緑色に染まった大きな瞳。

 すんなりと通った鼻筋。

 そして作り物のように整った顔立ち。

 なにより小柄な姿。

 間違いなくそれは純血種のアルヴィンあった。

 よく見るとリザを支える少女の、ひとつに編み込んだ長い金色の髪の先が、排水溝に入り込んで濡れていた。

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