第二十三話 雨の檻 3/4

 雨はまるで息をしているかのように、強弱の波を繰り返していた。

 屋根を叩く音が一番わかりやすい。ただ、どちらにしろ雨音以外は聞こえなかった。

 つい先ほどまでは屋敷もそれに続く庭も、二つの望月が煌々と照らし出していたのだが、今は闇が全てを覆っていた。

 エルデは耳を澄ました。

 屋根を打つ雨の音、下草にはねる雨の音、そして石を敷き詰めた小道に跳ね返る雨の音が聞こえた。

 それはもちろん、エルデが求める音ではなかった。

 降り出してから一時間程がすぎても雨は上がらず、何もない闇の中でエルデはひとりぼっちだった。


 やがて苦笑が漏れた。いや、自嘲だろう。

 やる前から勝負は付いていたのだ。

 この勝負はもともとエルネスティーネの為のものなのだと、エルデはわかった上で受諾したのだ。

 一人だけで夜明けを待つ事は折り込み済みのはずだった。

 ただ、雨は想定外だった。

 晴れていれば、望月となったアイスとデヴァイスを眺めて過ごすこともできた。だが、雨だと無聊を慰めてくれるのは音だけだ。

 いや、慰めにもなるまい。今はいいが、やがてそれは自分の惨めさを浮き立たせる嫌味な伴奏にしか思えなくなるに違いない。


 今頃はもう、エイルはエルネスティーネとともに屋敷に戻っているだろう。暖かな紅茶でも飲んで語り合っているかもしれない。温暖な土地とは言え、雨の夜はさすがに肌寒い。ベックの事だ。きっと気を利かせて、二人の紅茶には少し多めにブランデーを垂らしているに違いなかった。

 そしてその後、二人は一枚の毛布にくるまって夜を過ごすのだろう。それはきっと暖かくて、居心地のいい夢のような時間に違いない。

 冷たい雨の音だけを抱いて朝を迎えた後、エルデはどんな顔で朝食のテーブルに着けばいいのかを考えた。

 だがどうしていいのかいっこうにわからなかった。

 いや。

 いつもと同じように拒絶していればいいのだ。

 拒絶する「振り」をしていればいいだけなのだ。

 明日の朝がそれまでと根本的に違うとしたら、今まで拒絶だったものが、今度はもう拒絶にはならない。

 それはただの逃避で、エイルを直視できないだけなのだ。弱い心がありもしない逃げ場を探してさまよいもがく……そんな姿をさらすだけになる。

 だがそれはエルデ自身が招いた結末だ。望もうが望むまいが、おこした行動にはいつか結末は訪れる。それが今日なのだ。

 あの事件の後、全ての接触を拒んだのは他ならぬエルデ自身なのだから、その後に訪れる結末に責任を持たねばならないのもまたエルデ自身であろう。

 つまり、雨の音という鉄格子に囲まれたこの場所で朝を迎え、白み始めた空が檻の鍵を開けた後、最終的な刑の執行を聞きに屋敷に戻らねばならないのだ。


 覚悟は決めたはずだった。

 だが、覚悟とは理性である。後悔という感情は理性とはまったく関係なく訪れるものだ。

 その気持ちをいくら否定しても、心の全てを支配下に置くには、エルデはまだ若すぎた。

 だから、気がつけば熱い滴が頬を伝っていた。

 嗚咽は押し殺すことが出来た。だが涙腺が溢れるのを制御することはできなかった。

 顎を伝った涙が、雨の飛沫が作った床の染みに溶けた。

「ウチは何をやってるんやろな……」

 そして思わずそんな言葉が口をついた。

 それは誰に宛てたものでもない。雨音の檻の中で人の肉声が聞きたかっただけだった。たとえそれが現象としての独り言であったとしても。

 寂しさに耐えきれない気持ちが、雨音以外の、血が通った音を欲したのである。


「何をやってるんだろうって、オレを待ってくれてるんじゃないのか?」

 自分以外の肉声が、湿り気を帯びた空気を震わせてエルデの耳に届いた。もちろん他人の声だ。だがそれはとてもよく知っている声で、そして一番聞きたかった声でもあった。


 鼓動が跳ねた。

 一瞬にして頭の中が真っ白になる。

「え?」

 反射的にエルデは声のする方へ顔を向けた。

 漆黒の闇ではないから、小屋の入り口に人間の輪郭がちゃんと見える。

 今の言葉が幻聴ではないという証拠が、そこにあった。

「悪い。待たせた」

 人間の輪郭がそう言った。

 もちろんそれが自分に対しての言葉だと、エルデにはわかっていた。

 しかし真っ白になった頭には何も浮かんでこず、白い波がざわめくばかりだ。エルデのそんな空っぽな体に、大きく跳ねる鼓動だけが響いていた。

(どうして?)

 やがてゆっくりと言葉が下りてきた。

 一度形を作ると、言葉は疑問を生み続け、次々と空っぽだった頭を満たす。

(なんでエイルがここにいるん?)

(それにここに来るまでに、足音一つ聞こえへんかったんはなんでやの?)

(そもそも何しに……来たん?)


「あ……」

 エルデは我に返ると、精杖ノルンを取り出し、小さい声でルーンを唱えた。

 精杖の頭頂部がぼうっとした柔らかな光を放ち、真っ暗な空間をぼんやりと切り取った。

 来訪者の顔がやっと見えた。

 入り口に立っていたのは紛れもなくエイルだった。

 髪も服も雨で濡れていた。

 間違いなく、この雨の中を歩いてきたのだ。

「エイル………」

「やっと口をきいてくれたな」

「うそ……」

「それに、ちゃんとオレを見てくれてる」

「なんで?」

「なんでって……歓迎してくれないのか?」

「それは……」

 言葉を交わしているようで、いまだ嚙み合ってはいなかった。それは決心を持って現れたエイルと、虚脱に身を任せていたエルデとの体温の差に似ていた。


「オレ、やっぱりお前に嫌われているのか?」

「え?」

 エイルの問いかけに、エルデの目が大きく見開かれ、そしてその頭は左右に揺れた。

「それは……そんなことない」

「そっか。だったら良かった。じゃあ、待っててくれたんだよな?」

 言葉はない。

 エルデはただ大きくうなずいた。

「そっか。じゃあ……」

 そう言うと、エイルはゆっくりとエルデに近づき、何も言わずにそのまま抱きしめた。

「あ……」

 エルデからは驚いたような声が出た。そしてそれに続くように、何かが床にぶつかる鈍い音がした。精杖ノルンがエルデの手から滑り落ちたのだ。いつもなら手を離すと空間に留まるノルンが重力に引かれて自由落下する程、エルデの制御は全てに渡って不安定になっていた。

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