第十八話 癒やす者 4/4
クロスは静かな眼差しを声の主に向けると、初めて表情を崩した。問いかけた女の子に笑いかけたのだ。
「これは失敬。私の名前はクロス。君の婚約者だよ。婚約者という意味がわかるかい?」
「父様と母様の事?」
「そうだね。正確にはそうなることを約束した間柄、という事になるね。私は君の母上とそれを約束したんだ」
クロスはそういうとレティナをチラリと見た。
「待って……おねがい、もう少しだけ」
レティナの哀願に、しかしクロスは無表情のままだった。お継ぎ様に見せた笑顔はほんの一瞬だったのだ。
「違うわ」
お継ぎ様の声がクロスの視線を再び奪った。
「だって、父様と母様はとても大好き同士なのよ? お兄さんは私の事が好きじゃない。私もお兄さんの事が好きじゃない。それは婚約者じゃない」
強い調子の声だった。
だが、クロスはその言葉にも全く動じなかった。
「君の父様と母様も初めて出会った時は、お互いに好き同士じゃなかったんだよ」
「え?」
そんな事は考えたことも無かったという表情でお継ぎ様は母親を見上げた。母であるレティナは我が子の視線を受けて、努めて優しい顔で微笑みかけた。
だが母親が口を開くよりも先にクロスが続けた。
「大丈夫だよ。たくさんおしゃべりして、その後ぐっすり眠って目が覚めれば、君はもう私の事が好きになっている。私も君を大事にするよ。だから何も心配しなくてもいいんだ」
「父様と母様も一緒に行くの?」
お継ぎ様の問いに、クロスは首を横に振った。
「残念ながらそれはできない」
「ラウネとリートは?」
クロスは後ろに控える二人のアルヴをみやった。
「ザルカ付随のラ=レイの者か?」
クロスの問いかけに姉妹が素直に応じていいものかどうか迷っていると、それまで沈黙を守っていたシグルトが言葉を挟んだ。
「二人は姉妹で、我がザルカの守衆、ラ=レイ一族に間違いございません、《黒き帳》様」
「ザルカならともかく、ラ=レイの者なら問題はない。君が望むなら一緒に連れて行こう。それに君が抱いている黒猫も」
「リ=ルッカも?」
「その子はリ=ルッカという名前なんだね。僕の方にいるこの子はセッカだ。僕は黒猫が大好きだから大丈夫。リ=ルッカとも友達になれるさ」
クロスはそう言って肩のセッカの頭をなでて見せた。
「リ=ルッカにそっくり」
お継ぎ様はその様子をじっと見つめた。
ラウネリアとエルデールトリートはいい。しかしクロスの言葉によれば、シグルトは駄目だという事であった。
ラ=レイとザルカの違い……。
どちらも亜神ではなく人間だが、大きな違いがあった。
ザルカは十二色。人の八族の一つ。
対してラ=レイは十二色ではない。
「やっぱり、いや」
ラ=レイ姉妹の同道は許されたが、お継ぎ様はクロスの元に行くことを断った。
幼いながら、自分がクロスの元に行かねば、両親に何か「良からぬ事」が起きるのだという事を理解していたお継ぎ様は、勇気を振り絞って自分から行動しようと試みた。
だがたとえ仲の良いラウネリアやエルデールトリートが一緒でも、やはり家を離れて知らぬ相手の元に行く事を決心する事ができなかったのだろう。
しかし……
お継ぎ様はエルデの想像とは違う理由を口にした。
「ラウネとリートはシグの事が大好きなの。だからシグも一緒じゃないと私はいや」
「ふむ。困ったね」
さして困った風にはみえないクロスが答える。
「ザルカは、君の母上の守護の一族だ。だからシグルトは母上から離れられない」
「だったらお母様も一緒じゃないといや。そしてお母様はお父様が大大大大大好きだから、お父様も一緒じゃないといや。みんな一緒なら行く。駄目ならお兄さんのところには私は絶対行かない!」
体全体を使い、精一杯の声でそう叫んだお継ぎ様の黒髪がさらりと揺れた。
大きな声だった。そしてその叫び声にも一切、全く、微塵も反応しなかったクロスだが、お継ぎ様の額にかかる髪が揺れるをの見て、目を見開いた。
クロスが初めて見せた動揺らしい動揺であった。
「賢者の徴だって? ……いや、待て。まさかその子は……亜神なのか?」
お継ぎ様の額には、いつものように開かれた三番目の目があり、赤い瞳はじっとクロスを見つめていた。
「これはどういう事だい? レティナおばさん」
クロスはそういうと、初めてその場を動いた。スッと地面に降り立ち、そのままお継ぎ様に、いやレティナに向かって近づいてきた。
「説明をしてもらいたいね。いったいレティナおばさんは何をやったんだ?」
今までと違い、その声には落ち着きがなかった。怒気、いや敵意が込められていた。少なくともお継ぎ様はそう感じたのだ。
その時である。
「サラマンダ!」
父の名を呼ぶお継ぎ様の声が響いた。
続いて、クロスを拒絶する言葉。
「母様に近づかないで!」
とっさに何が起こったのかを理解出来た者は、そこには誰一人いなかった。
一同はクロスを見ていた。そしてクロスは自分の胸を見つめていた。こぶし大の穴が空いた、自分の胸を。
貫いていたのは槍でも剣でもない。
炎の柱だった。
それはお継ぎ様が突きだした右の掌から発せられ、クロスの右胸を貫いて森の上空へと長く長く伸びていた。
エルデの意識はそこで途絶えた。
覚醒すると、辺りは真っ暗だった。
セレナタイトの光はいつの間にか消えており、部屋に一つだけある円い窓からは頼りない星明かりが漏れているだけだった。
緩やかではあるが部屋全体がゆったりとした周期で動いているのがわかる。エルデが眠っている間に船はラスダを出港していた。
膝を抱えたまま眠っていたエルデは、そのままの姿で暗い天井を見上げた。その拍子に目尻から熱いものが頬を伝うのがわかった。
夢を見ながら泣いていたのだ。
エルデは苦笑すると涙を拭った。
そしてのろのろと立ち上がり、しばし思案した後で結局精杖ノルンを呼び出した。
頭頂部に向かって小さくつぶやくと、そこにぼんやりとした灯りがともった。
その光る頭頂部をしばらく見つめていたエルデだが、やがて意を決したように小さな声で呼びかけた。
「《白き翼》の名に於いて命ずる。出でよ、シグ・ザルカバード」
召還の言葉を告げると、間を置かずにそこに小さなエーテル体が発光しながら現れた。
「およびですかな?」
シグのエーテル体は恭しく礼をすると、じっとエルデの顔を見つめた。
「もうあんまり猶予もないのに、呼び出してもうて堪忍や」
「いえ、そのような遠慮は無用です。何か慰めの言葉でもご所望ですかな?」
シグは精杖の中に封じられている状況でも、ある程度外界の様子がわかる。
かけた言葉は夕刻に起きた事件に対するものであった。
だが、エルデは首を横に振った。
「師匠に尋ねたいことがあるんやけど」
「何なりと」
うなずき、目を細めて空中に浮かぶエーテル体をじっと見つめたエルデは、ゆっくりとその形のいい口を開いた。
「ではたずねる。レティナとサラマンダの娘は、何故生まれながらに三眼なのだ? 人と亜神の間に生まれた子は、人の形態を受け継ぐはずではないのか?」
エルデの口調が変わっていた。古語ではなく、標準語の南方語を使い、たずねたのだ。
それはつまり、あまりにも不機嫌で冷静さを欠く自分を抑えるためのエルデのクセのようなものであった。
エルデの言葉がシグの表情に動揺をもたらした。
「記憶が……戻られたか」
強ばった顔のシグがつぶやく。そしてほんの少しの間おいて辛そうにたずねてきた。
「それがどのような記憶か、お教えくださいませ」
エルデはシグの質問には答えず、硬い表情のまま不機嫌な声で命じた。
「十二色筆頭、無彩色の上座に在る《白き翼》として命じる。我が質問に疾(と)く答えよ、シグ・ザルカバード。いや、シグルト・ザルカよ」
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