第十八話 癒やす者 3/4
森だった。
初めて夢の背景が変わった。
既に見知った屋敷の裏口の前には、鬱蒼とした森が広がっていた。
小さなお継ぎ様はリ=ルッカを胸に抱いたまま、その森を前に立ち尽くしていた。
彼女だけではない。
お継ぎ様の後ろにはラウネリアとエルデールトリート、そして無口なシグルトもいた。
そしてお継ぎ様の両脇には母と父、すなわちレティナとサラマンダがいて、それぞれお継ぎ様の肩に手を置いていた。
彼らが纏う共通項、すなわちそこにあったものは緊張という名の空気だった。
誰の顔にも笑顔がない。
普段は真剣な顔が長続きしないラウネリアもエルデールトリートも、目を吊り上げて前方をにらみ続けている。
シグルトはいつものように精杖を取り出したままで、静かに立っていた。しかしその目には敵意が露わになっており、視線は同じく前方に向いていた。
彼らが見つめる森。そこへ続く道の入り口に「原因」はあった。
金髪碧眼のアルヴの若者がそこに立っていたのだ。
いや、立っていたというのは正確な表現とは言いがたい。彼は地に足が着いていないのだ。つまり、空中に浮かんでいた。
漂うのではなく、静止していたのだ。
よく見ると若者は一人ではなかった。アルヴの大きな肩に、黒い猫が座っていた。
青い目、白い三日月が胸の一部にある猫……。
そして若者の額には真っ赤な目が開いていた。
「クロス・アイリス……」
レティナが唸るようにアルヴの名を口にした。
そういうレティナの目は血の色で、当然三番目の目も開いていた。
お継ぎ様も相変わらず同様に三眼のままだが、これは普段通りといっていいだろう。
「私は今日から《黒き帳(くろきとばり)》だ、レティナおばさん、いや《白き翼》」
「今日から?」
レティナはクロスの言葉に虚を突かれた。
それを見てサラマンダが言葉を投げつけた。
「何をしに来た!」
これはサラマンダだった。
「何をしに来たとはご挨拶だな、サラマンダ。私は昔の約束を果たしに来ただけだ」
「約束だと?」
「お前ではない。十二色の筆頭である
敢えて言われるまでもなかった。
レティナ達は皆知っていたからだ。「その日」がやってくる事を。
クロス・アイリスが《黒き帳》を継いだ時、レティナの子をもらい受けるという約束である。
レティナはサラマンダの存在隠蔽、すなわち命と引き替えに、クロスと取り引きをしたのだ。
だが、それほど早く「その日」がやってくるとは思わなかった。
「《黒き帳》を継いだだと? 今上の《黒き帳》はどうした? 私はつい先日、前座で見えたばかりだぞ?」
「その問いに答える前に、まずは誤謬を正しておきたい。今上とは私の事だよ」
「屁理屈はいい。イコン・アイリスはどうしたのかと問うている」
「先日というのが一体星歴の何月何日を指しているのかがあやふやだね。まあいい、その時、『先代』は死にそうだったかい?」
「まさか。いたって壮健であられた」
「有る特定の時間に於いて壮健な者は未来永劫壮健だとでも言うのかい? もしそうならとてもハイレーンの言葉とは思えないね。そんな事より今日が何の日か知らぬわけではあるまい? それともこの結界の中では現世の暦などどうでもいいとでもいうのかい?」
「まずは答えろ、クロス。イコンをどうしたのだ?」
徐々に激してゆくレティナに比べ、クロスは終始落ち着き払っているように見えた。
そして眉一つ動かさずにこう答えた。
「なに、レティナおばさんが先代の《深紅の綺羅》にしたのと同じ事……と言えばおわかりだろう?」
「イコンは実の父であろうがっ!」
母の怒声に、お継ぎ様と呼ばれる瞳髪黒色の幼い亜神は思わず怯え、繫いだ手に力を込めた。そこで初めてレティナは自分が冷静さを失っていたことに気付いた。
「他人であればいいのか?」
幸い、クロスは感情の欠片もない調子でそう言った。
「レティナおばさんが炎のエレメンタルを我が物にする為に《深紅の綺羅》を亡き者にする必要があったのだというのならば、私がその子を我が物にするために《黒き帳》を亡き者にする事に対して批難できるお立場か? もっとも勘違いの無いように伝えておくと、私は一切手を出してはいない。父上はしくじった。それだけの事だ」
二人の会話には直接的な表現があるにもかかわらず、その向こう側が不透明なままであった。ただ血なまぐさいにおいは隠しようがない。
「しくじった?」
「父上はエレメンタルを甘く見すぎていた、という事だよ。《白き翼》のように、さっさと消しておけばよかったものを」
クロスの話だけでは何が起こったのかはわからない。だが、想定されていない大きな事故が起こった事は知れた。
それにしても自分の実の父が死んだというのにクロスの落ち着き様はどうだろう?
対して平静を装っているレティナの狼狽振りは纏う精霊波(エーテル)の乱れで手に取るようにわかった。
亜神同士は当然ながら互いの精霊波が見える。風一つ無い湖のように静かなクロスに対し、強風に翻弄されるロウソクのように頼りなく揺れ散るレティナのエーテル。
「どちらにしろ、今回もマーリンの座は発動しなかったという事だよ。正教会の思惑通りにね。もっとも、そこに居る炎のエレメンタルがそれを望むなら、まだ可能性は残されているんだけど……」
そう言ってクロスは視線をサラマンダに向けた。
サラマンダ自身のエーテルは落ち着いていた。レティナと違いクロスの事を深く知らない事がその理由ではある。だがそれは理由の一つにしか過ぎなかった。
そもそもサラマンダはクロスから敵意や殺意といった類の攻撃的な雰囲気を全く感じなかったからだ。
だが決して心を許しているわけでも友好的な気持ちになっているわけでもない。娘を奪いに来た相手には違いないのだから。
だが、どちらにしろどうしようもない事はわかっていた。
そもそもクロスは奪いに来たわけではない。約束を果たしに来ただけなのだ。
客観的に見れば、クロスとお継ぎ様と呼ばれるサラマンダとレティナの子供は、許嫁と言えた。たとえそれが取り引きの為であったとはいえ。
クロスは強引に奪おうとはしていない。森の入り口、いや出口に浮いた状態で、それ以上近づこうとはしない。
以前の対面の時もそうだったが、レティナの恐がりようから察するに、クロスがその気になればお継ぎ様を奪うことは容易なのであろう。いや、容易ではないかもしれないが、そう困難ではないはずだった。
だがクロスは一歩も動かなかった。
「この期に及んで約束を反古にするつもりかい? 冷静に考えた方がいいよ、《白き翼》 いや、レティナおばさん。以前も言ったとおりこれは悪い取り引きではないはずだ」
「それにしても急すぎる。私達はこれから森に遊びに行くはずだったの。この子が……いいえ、この子も、私達も夕べから楽しみにしていたのよ」
レティナは今度は懇願するように叫んだ。
「森で数時間過ごすまで待つのはたやすい。だが、果たしてそれは楽しい時間になるのかい? 急だと言うが、今日が『合わせ月』だという事はわかっていたはず。その日が何事もなく平穏に過ぎると信じ切っていたとするなら、ただの愚か者だよ」
クロスの言うことはもっともだった。
その時が来たから、約束を果たす為にクロスはやってきた。
別に家族で森に遊びに行く日を狙ってやって来たわけではないのだろう。
そして「その事」を知ってしまった後では、確かに誰ももう、楽しい気持ちで時を過ごすことは不可能だった。
「成人を迎える一五歳まで……いえ、せめてあと一年……」
「くどいよ、レティナおばさん。この子は残るんだよ。少なくとも私以外の亜神より長生きできる。全てが終われば人間として自分の道を歩くこともできるだろう」
「時の流れに任せていればいいではないですか。あなたに神の摂理を曲げる権利などないのですよ」
レティナには余裕が無くなっていた。
切羽詰まった口調はもう隠しようがない。
それはもう誰の目にもあきらかであった。お継ぎ様にも。
「お兄さんは、だあれ?」
見知らぬ青年の様子がおかしいのは、お継ぎ様にもわかっていた。
いや。子供だからこそ誰よりも敏感にクロスの持つ異質さは察知していたのだろう。
そしてだからこそレティナ達とは全く違う、クロスの持つエーテルに素直に反応したのに違いない。
だから自ら声をかけた。
目の前の長身のアルヴが纏う、底知れぬ闇の正体が知りたかった。
今まで見たこともないエーテルを、何故皆が恐れるのかを知りたかった。
そして自分に特別な強い視線を送る、その真意を知りたかった。
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