第十八話 癒やす者 2/4
「なあんだ。だったら早く教えてくれればいいのだ」
サラマンダは少し残念そうにそういうと、それでも怒る様子もなく優しい眼差しでそっとレティナの手をとり、引き寄せた。
「皆の考えた名前も一応聞いておきたかったのです。でもやっぱり私の考えた名前が一番だと思いました」
「レティがそういうのなら、きっとそうなのだろう。早く私達の娘の名を、教えておくれ」
レティナはうなずくと、我が子をサラマンダから受け取り胸に抱いた。
ラ=レイ姉妹の目が期待で輝く。
「この子の名は『癒やす者』です。素晴らしいハイレーンになりますように。そしてこの子に関わる全ての者が、癒やされ、そして微笑む事ができますように。……そして、願わくば黒のアイリスのあの子の心にも、きっと平安と平穏を」
レティナはそう言った。
だが最後の一言は誰にも聞き取れないほど小さく弱いものだった。
さらに場面が変わる。
いや、時間が進んだと言うべきだろうか。
元気な少女が部屋を走り回っていた。しかも一糸まとわぬ素っ裸のまま、である。
その後を、黒猫が追う。
少女がまだ赤ん坊だった頃に部屋にいた、あの黒猫であった。胸に三日月型の白い部分がある、セッカそっくりの黒猫だ。
セッカとの違いは目の色だった。深い空の青い目を持つセッカに対し、二匹目の黒猫の目は金色なのだ。
その黒猫が追いかけている少女の正確な年齢はわからないが、その体つきからエルデの目には七、八歳に成長しているように見えた。
黒い髪はお尻をすっかり隠す程伸びていて、お下げにまとめられていた。
走るたびにその黒い髪がふわっと広がる。
その娘の額には、相変わらず赤い目があった。
娘と黒猫の後を二人のアルヴの娘が追いかけている。
「お待ち下さい! お継ぎ様。リ=ルッカも一緒になって走るんじゃありません」
「お風呂の時間でございます! そんな格好でいつまでもはしゃいでいては風邪を召しますよ、お継ぎ様」
お継ぎ様と呼ばれる娘が成長しているのと同様に、ラウネリアもエルデールトリートも成長していた。
姉妹は、顔の様子から子供っぽさがほとんど消え、すっかり大人びて見えた。
黒猫の名はリ=ルッカ。どうやらラ=レイ姉妹同様に「お継ぎ様」が大好きなようで、常に行動を共にしている。
三人と一匹は追いかけっこをして遊んでいるわけではないようだ。
お継ぎ様と黒猫リ=ルッカを追いかけるラ=レイ姉妹の表情には余裕がない。ようするに彼女たちは真剣であった。妹のエルデールトリートなど、目がそうとうに吊り上がっていた。
しかしお継ぎ様と呼ばれる少女はそんな二人の気持ちなど意に介さず、笑い声を上げながらするりするりと差し出された腕をかわし、すばしこく屋敷中を逃げ回っていた。
そうこうするうち、ようやく幼いピクシィの娘も、二人の大人に挟み撃ちになり、あとは捕まるばかりとなった。
しかしエルデには追い詰められたはずのお継ぎ様の表情にはまだまだ余裕があるよう見えた。いや、不敵な表情とでもいった方が適切なのかもしれない。
そのわけはすぐにわかった。逃げ場を失ったお継ぎ様は、驚くべき「奥の手」をもっていたのだ。
彼女はリ=ルッカを素早く抱き上げると、そのまま跳躍した。
しかも幼い子供の頼りないそれではない。助走も何も無くその場から垂直に飛び上がると、なんと天井に到達したのだ。そして天井にトンと手をついたかと思うと、そこで今度は腕の力で着地するべき方向に自らの体を押し出した。
「ああ、ずるい!」
「そういうのは禁止だと、このリートと昨日お約束したばかりではありませんか」
人間とは思えない軽業でアルヴ姉妹の包囲網をいとも簡単に破ったピクシィの少女は、着地した場所、すなわち上座に座って騒動を眺めていたサラマンダの胸に飛び込んだ。
「お父様、ラウネとリートがいじめます」
そして甘えた声でそう訴え、嬉しそうに顔を父親の胸にぐりぐりとこすりつけた。
「それはとっても嘘です、炎精様」
ラウネリアが口をとがらせて即座に抗議すると、
「お風呂をいただく時間ですのに、お召し物を脱ぐといきなり駄々をこねられて、ご覧の通り私たちはとても弱っております」
エルデールトリートがそう補足した。
「ねえ、お父様、私は森に行きたいのです」
しかしお継ぎ様はラ=レイ姉妹の言う事など意に介さず、父親に全く脈絡のないおねだりをした。
「そうか、森か。それなら明日、俺と一緒に行こう。今日はもう日が暮れてしまうし、その格好だと下草や藪で怪我をしてしまう。今日のところはラウネとリートと三人で一緒に風呂に入って、その後リ=ルッカも一緒にみんなで夕餉(ゆうげ)を取ろう」
「お父様が一緒に行って下さるのですか?」
お継ぎ様の顔がさらにほころび、まるで花が咲いたようになる。それは心に浮かんだうれしさを、そのまま形にしたかのような笑顔だった。
もとよりお継ぎ様は、いつでも笑顔だった。
いたずら好きだが自分がやり過ぎた事がわかると、父親の膝の上から降り、ラウネリアとエルデールトリートに謝った。
少しすねて見せていたエルデールトリートはお継ぎ様が謝ると、あっという間にそれを許して笑顔になった。
怒った顔で見下ろすラウネも、お継ぎ様が「ごめんなさい」と言うと、あっと言う間に相好を崩し、しゃがんで小さな体を抱きしめた。
お継ぎ様はそんな二人に体を投げ出すようにして甘えた。
それはつまり悪気などない、気を引くためのいたずらであり、抱きしめて貰うための駄々でしかなかったのだ。
「なら、お父様も一緒にお風呂にはいりましょう」
二人に抱かれたお継ぎ様の提案に、サラマンダは頭を掻いた。
「俺はいいんだけど、ラウネやリートが嫌がるよ」
父親の言葉に、お継ぎ様はラ=レイ姉妹に顔を向けた。
「嫌なの?」
妙な話題を振られた姉妹は、顔を見合わせると真っ赤になった。
「そ、それはさすがに……でもご命令ならば……」
エルデールトリートが顔を背けながらそういうと、姉のラウネリアが機転を利かせた。
「こういうことは、まず白様にうかがわなければなりません」
「ごほん」
サラマンダはわざとらしい咳払いをすると、娘の頭を撫でた。
「いつものように三人『だけ』で、入りなさい」
「ふふふ。お父様、顔が赤いー」
勿論それも少女の悪戯であった。父親をからかったのだ。
つまりそうやって父親を翻弄できるほどに、娘は成長していたという事であろう。
エルデはその光景を眺めながら、暖かい何かが、胸の内を満たすのを感じていた。
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