第七話 落花の泉 2/4
ただ、多雨な気候と火山、そして石灰岩による土地は飲料に適した良質な湧き水が豊富で、ドライアド海軍の水の補給は多くの場合レナンではなくここで行われた。
レナンで水を買うと相当に高かったのだが、アイロモスの水は言ってみれば「ただ」のようなものだったからだ。
アイロモスの駐在員のやる事はその水の補給の為の手配が主な仕事であった。
漁村であるアイロモスの住人も、ドライアドの軍船が入る時は漁を休んで補給の手伝いをする。海岸沿いの広場に天幕を張り、陸に上がった兵達の為に新鮮な果実や手料理を振る舞う。
それは兵達にとっては安価な休息地であり、住民達にとっては貴重な現金収入の機会でもあったのだ。
つまりグラニィがやるべき仕事は戦術や戦略とはまったく無縁の仕事だったのだ。役所の住民係、しかも出先機関のそれ、といった業務内容であった。
そんなのんびりとした暮らしになれきってしまっていた部下のパンナイズは、軍服すら身につけず、風通しの良いシャツと膝上までのゆったりしたズボンを穿き、普段は靴さえ履いていなかった。
赴任して五年になるというが一度も故郷へは帰らず、現地の女と懇ろになって一緒に暮らしていた。
グラニィの前任者は二年前にレナンの軍隊に戻り、その後は長く責任者不在のまま、パンナイズは所長代行として業務全般を取り仕切っていた。
すっかり現地の人間になりきっているパンナイズではあるが、決して怠惰な性格ではないらしく、その証拠に軍関係の情報収集は比較的密に行っており、そこから得た世界情勢にもそれなりに明るかった。
なにより自分の赴任の経緯を知っていた事にグラニィは驚いた。
どうやらパンナイズにはそれなりの人脈作りに長けた才能があると睨んだグラニィは、彼をそのまま所長代行として、主立った用件に当たらせた。もちろん業務を丸投げするわけではなく、書類仕事は引き受けた上で、対外折衝を担当させたのだ。
過去の帳面類を精査したグラニィは、パンナイズの几帳面さは評価したものの、成果については評価できなかった為である。それに比べて人付き合いの良い性格が幸いして、現地やレナンとの連絡兵などとの風通しが実に良く、常に要求水準を超える成果を持ってきた。
赴任の当日、パンナイズは挨拶もそこそこに、まず村を案内すると言って荷物を解く間も与えずにグラニィを引っ張り回した。
パンナイズの意図はすぐにわかった。村に溶け込む為の最良の手段を彼は知っていたのだ。
赴任早々にまず村中を挨拶して回った新しい所長は、翌日には村人に完全に受け入れられた存在になっていた。
「ツゥレフの人間は心意気というか、相手の気持ちを感覚的に決めつけちまうところがありましてね」
パンナイズは赴任当日、グラニィを自宅の夕食の席に招待した。
そこには昼間挨拶済みの村長をはじめとする顔役が揃っていた。もちろんパンナイズの仕込みであるが、その宴が引けたあとで、パンナイズがグラニィにそうつぶやいたのだ。
「前任のお方も、何やらやらかして飛ばされてきたようなんですが、どうにもふてくされたままで、私のお誘いにはまったく乗っていただけませんでした」
村の顔役達が、口々に「前任者とは人物のできが違う」などと言って盛んにグラニィを持ち上げていた理由がそれだと言うのである。
「ほんのちょっとした事なんです。ここの住民はみんな気のいい人間ですが、軍人はやはり嫌っています。貴重な収入源だから大きな声では言いませんが、軍船が補給にやってくる事を歓迎はしてません。放っておくと兵が村の女達にちょっかいを出す。そうなるとツゥレフの男は相手が誰だろうと黙っちゃいない。でも、事が起こると村は全滅」
「まさか……」
「そのまさかですよ。レナンスって言葉ご存じでしょ?」
アイロモスはもともと、レナンスによって開かれた集落であるらしい。清浄な湧き水とそこかしこに湧く温泉を見つけたとある貴族の子息が保養地として拓いたのが始まりなのだという。
結局家督を継げぬその貴族の子息は、アイロモスに移住し、生涯をここで暮らした。その時に主に漁業を生業としたそれなりの集落が出来て現在に至る。
「その流れがあるので、ここの住民はみな自分達が誇り高いレナンスのようでありたいという気持ちが強いんですよ。だからここの男達はちっちゃい時から鍛え上げられてるから剣技はめっぽう強くて、その優劣でもってそれなりの統率もとれてるんです」
だから、それなりの礼を尽くす相手に対しては胸襟を開くが、そうでない人間には距離を置くのだとパンナイズは説明した。
「俺はそんなこの村がすっかり気に入っちまいましてね。だからもう骨を埋める気でいるんでさ」
国に帰る気は無く、国に残した妻とはすでに離婚も成立していると言って笑うパンナイズは、目を細めて手伝いに来た妹達と一緒におしゃべりをしながら食器を洗っている新しい妻を見守った。
その横顔を見たグラニィは、だから折衝に関わる事柄を今まで通りにパンナイズに任せることにしたのである。
彼は残念ながらパンナイズと違ってアイロモスに永住するつもりはなかった。もちろんパンナイズの話をきいていると、そういう生き方も魅力的だと思えた。だが残念ながらグラニィは複数の人生を持ってはいない。
ならば仮の住み処であるアイロモスを濁さずにおくのが一番だと考えたのである。
裏方が苦手なパンナイズの為に、グラニィは無駄に煩雑化したまままったく手が入れられていない書類業務を大幅に整理した上で、効率化と簡素化を図ることにした。自分がこの地を去った後に、パンナイズがこめかみに皺を寄せる事なく、そして新しい所長がかんしゃくをおこさぬようにする事こそ、自らがこの地で成すべき仕事なのだと決心した。
その後は極めて順調であった。それは言い換えれば退屈な毎日ではあったが、剣技の稽古をしたければ相手には事欠かなかったし、考え事がしたければ釣り糸を垂れても絶対に何もかからない釣り場の情報が村にはあふれていた。
もっとも、いい事ばかりというわけにもいかない。閉口した事が一つだけあった。
赴任した翌日の夜に、若い娘がグラニィの寝室にたずねてきたのだ。
翌朝パンナイズが訳あり顔で「どうでしたか?」と水を向けたので仕込み人が誰なのかを知る事になった。
追い返すのは逆にマズいと判断したグラニィは、帰れとは言わず、部屋に灯りをともすと茶を入れて娘をもてなし、夜明けまでいろんな話をした。
それを伝えるとパンナイズは肩をすくめて苦笑しながら言い訳をした。
「村に溶け込む手っ取り早くて一番効果的な方法なんスけどね」
「相手はお前の話に納得したからやってきたと言っていたが、そうは言ってもさすがに村長の孫はまずいだろう?」
「いえ、私からの要請じゃないですよ。夕べのは村長からの申し出でして」
パンナイズの答えに、グラニィは頭を抱えた。
確かに娘は自発的にやってきたような事を言っていた。だがその言葉も含めて全てパンナイズのお膳立てによるものだとグラニィは睨んでいたのだ。しかしパンナイズはただの手引き役で、仕掛けはそもそも村長だという。
そうなるとこれは単純な男と女の話ではなくなる。
パンナイズの話が嘘ではない事を再確認すると、グラニィは正装してすぐに村長宅へ向かった。
もちろん村長とは腹を割って話をするつもりだったのである。
そう言う風習なのだと言えば現地と溶け込む為には従うべきなのだろうが、それを回避出来る可能性があるのならそれを。ムリならばお互いの妥協点を探りながら落としどころを見つけたかったのである。
それにこういうことは時間を空けるとろくなことが無い事をグラニィは嫌と言うほど知っていた。ドライアド軍の内部はまさに「そういう事」のるつぼと言えた。
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