第七話 落花の泉 1/4

 その朝は起き抜けから妙な胸騒ぎがした。

 そわそわとして落ち着かないまま早々に散歩を切り上げたグラニィ・ゲイツは、その日に限って食堂ではなく執務室で朝食をとることにした。

 普段よりも早く執務室に入る必要はない。やらねばならぬ案件が机上に山積みになっているなどという事は無いのだから。

 きれい好きなグラニィの机の上は書類どころかチリ一つない。

 いや……何もないわけでもなかった。木目が詰まった上等な天板を持つ広い机の上には、プルミエの花をいくつか浮かした水鉢が一つだけ置かれていた。

 普段はここにないものだが、ここ数日は毎朝新しいものに取り替えられていた。

 グラニィの屋敷付きの給仕が一人急病で倒れたとかで代わりにやってきた若い娘の仕業だということはわかっていた。

 元々の給仕はそもそも部屋に花を飾るなどという価値観を一切有していない男で、グラニィもそんな事をまったく気にとめる質(たち)でなかったこともあって、執務室も寝室も殺風景この上ない状態であった。

 もともとグラニィは仮の住み処だと認識していたし、必要最低限のものがあればそれでよいという考えだったのだ。

 だが療養中の給仕の短期代役としてやってきた娘は、少なくとも執務室の何も無い机の上をよしとはしなかったのであろう。

 グラニィにしてみれば机に上に普段見慣れぬ物があろうとそれをとがめる事はなかった。また、放っておいても庭に咲き誇る様々な花が部屋に香りの自己主張をしてくるこの屋敷の部屋の中に、さらなる香りの主張が存在しても、特にそれを嫌がるような事もしなかった。

 部屋の掃除も以前より丁寧になっており、時々グラニィがため息をついて眺めていた部屋の隅の埃溜まりにもここしばらくはお目にかかれなくなった。

 執務室にあるクロゼットの制服にもきちんとブラシがかけられるようになり、玄関の靴拭いの下に前日の泥が残っていることも無くなった。

 要するに給仕が若い娘に変わった事で、多少なりともグラニィは快適さを感じていたのである。

 そうなると新しい給仕の娘に少々興味が湧いてくるのは人情と言うものであろう。

 まだ直接話をした事がないのを今更ながら思い出すと、グラニィは剣架から愛用の片手剣をとり、執務室を出て庭へ降りた。

 ついさきほど、それもほんの一瞬であるが件の娘の後ろ姿を視界の端に捕らえていたのだ。庭から続く林の奥へと向かっている様子であった。

 庭と言っても屋敷の敷地を特定する囲いがあるわけではない。そもそも集落は原生林がまばらになった海岸付近に位置しており、建物がなければその向こうは果てしなく庭なのである。

 その庭とも林ともいえる母屋から少し離れた場所に、泉がある。

 おそらく給仕の娘はそこへ向かったと思われた。

 グラニィの生活全般を担当している部下、要するに給仕長と執事長を兼ねたような庶務兵の説明によると「少し風変わりな娘」だと聞いていた。

 アルヴの血が入ったデュアルである事。

 それもあって背が高い事。

 髪の色を斑に染めている事。

 異様に無口で無表情だが、よく働く事。

 大切な人の形見ということで常に槍を身につけているが、木刃の飾り物なので許可した事。

 その程度の情報も得ていた。

 臨時に交代用員の給仕を雇った事を事後報告として聞いた時には、確かに風変わりだとは思ったが、その日グラニィの頭の中は別件で占められていてそれどころではなく、その娘の事はすっかり忘れていたのである。


 ここで少し、赴任当時のグラニィの環境を説明しておこう。

 ツゥレフ島アイロモス

 首府レナンから遠く離れた、島の南端付近の小さな漁村の名前である。

 背後には原生林が広がり、その向こうは活火山がある。村につづく陸路は一切無く、訪れるには船を使うしかない、独立湾村とも呼ぶべき僻地に、元スプリガンの隊長であったグラニィは特別赴任していた。

 特別赴任と言えば聞こえがいいが、「特別」とはつまり左遷である。

 表向きはウーモスでの補給作戦時、独断により未確認の集団を確保すべく部隊を大きく動かしたが、結果として賊を捕らえるどころか味方に死傷者を多数出した失態の責任を負わされた形で離れ島の片田舎へ転属させられた事になっている。

 スプリガンの隊長といういわば要職にあった人間が、艦隊の水の補給地としてしか役に立たないアイロモスの駐在になるという事は異例の人事と言える。

 しかも二階級も地位が下げられた上、さらに左遷である。

 いかに後ろ盾のないグラニィと言えども、この人事は誰が聞いても厳しすぎると言わざるを得ないものであった。

 決定したのはスプリガンの若き司令であるアキラ・アモウル・エウテルペ中佐であるが、その「見せしめ人事」はしばらくの間軍内でも評判になった。

 今まで表面化した事などなかったはずのグラニィとアキラの不仲説がまことしやかに語られ、それまで正論派のグラニィを煙たがっていた将校達の中にもグラニィを擁護したり同情する者が現れるほどであった。

 しかし、そんなうわさ話もほんの一週間程度しか彼らの口の端には上らなかった。もちろん政情の急変、簡単に言えば戦争の準備がドライアドでは既に始まろうとしていたからである。

 一人の左遷将校の行く末よりも安全で出世に有利な地位をどうやって掴むかに興味は移っていった。

 当のグラニィ自身も処分の内容を聞いた際には我が耳を疑った。

 処分を告げた副司令のヤリキィ・サンサにも食ってかかった。

 だがグラニィ自身が一目置く老軍人が、頭に血が上り声を荒らげるグラニィに告げた一言が、彼に冷静さを取り戻させた。

「時を待て。貴様は選ばれたのだ」

 静かにそう告げるヤリキィの顔には、何とも言えぬ哀愁が漂っていた。それはグラニィに対して哀れんでいるわけでも、突き放しているわけでもなく、まるで独り立ちする息子に向ける父親の心配顔のように思えた。

 グラニィはもちろんヤリキィの言葉の真意をたずねた。

 だがヤリキィはそれには一切答えず、その後はただ事務的な連絡事項を告げただけで、グラニィを部屋から早々に追い出した。

 ヤリキィとのそのやりとりがあったからこそ、グラニィは処分を黙って受け入れ、ツゥレフ島に渡ったのである。

 家族はドライアドに残した。ヤリキィが「悪いようにはしない」と請け合ったからそれを信じる事にした。

 だからグラニィは赴任先では単身であった。


 アイロモスに着いた日。グラニィはさすがに戸惑った。

 そこに居たドライアド軍の下士官は真面目な男であった。

 パンナイズ・スキマーと名乗るデュナンの少尉が、グラニィの直属の部下で、要するに軍人は彼一人であった。

 兵はいない。

 そもそも兵がいる必要は無い場所である。

 急峻な山がそのまま海から隆起したような場所で、水深がある天然の湾は相当に広く、ある意味で良港と言えた。しかしいかんせん平地がほとんどなく集落の確保には向かない事もあり、重要な拠点にはなりえない。従ってせいぜい軍船の待機場所として考えられていた場所であった。

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