第三話 エルネスティーネの誘惑 1/3
日差しをたっぷり浴びてキンポウゲの海に横たわり目を閉じる。
程なく意識は緩み、体が大気に溶け込むかのような浮遊感が生まれてくる。
ヴォールの丘にあるマーリン教会の地下広間は、まさにそんな春の野のようなさわやかで穏やかなエーテルに満ちていた。
先ほどの事件が冬の嵐とするならば、打って変わって今はうららかな春の午後と表現すべき空気で満ちていた。
そしてそれはどちらもエルデ・ヴァイスが作り上げたものなのだ。
エルデの精霊波による精神攻撃とも言えるあの「嵐」の影響をもっとも受けたのがエルネスティーネであった。
エルデの説明ではエーテルの感受性が高い者ほど影響を受けやすく、同じような意味で種として「濃い」もしくは「純粋」である人間ほど弱いのだという。
この場合の「種としての濃さ、純粋さ」とは太古から続く直系にどれだけ近いところにいるかという意味である。
カラティア家は有史以前から続く古い家柄である。その直系とも言えるエルネスティーネはそれだけでも影響を受けやすいわけであるが、そもそもアルヴ族にしては飛び抜けて感受性が強い性質であった事も災いしたのであろう。
つまりエルデの説明通りであったとするならば、エルネスティーネの取り乱しようも無理はないと言えた。
「入るよ」
エイルはそう声をかけると、エルネスティーネが運ばれた別室の扉を開けた。
それはエルデの指示であった。
広間で失神したエルネスティーネを軽々と抱きかかえたエルデは、一行にそのまま待っているように告げて自らベッドのある別室へ患者を運び、ルーンで穏やかな空間を作り出した上で、元の広間に戻った。その時にエイルに声をかけたのだ。この場を退き、エルネスティーネの側に居るようにと。
エルデには皆に事の詳細を説明する責任があった。それは広間にいる一行に自分の正体を告げるという事である。
論より証拠という事でもないのだろうが、「あの」後に話をすれば誰も何も疑わないだろう。
エルデに言わせればあれは「合理的」な手順だったのかもしれなかった。
だが、ここへ来て今まで隠し続けていた事をあっさりと公開する事にしたエルデに対してエイルは違和感を覚えた。
「もう、始まってもうたんや。隠す面倒さを考えたら明かす利得の方が大きいっちゅう事や」
エイルの疑問に対して、エルデはそれだけ言うと会話を切り上げた。
一行の説明は自分がする。けれどエルネスティーネに対する説明はエイルからして欲しいという事なのであろう。それもエルデの言葉を借りれば「合理的」な事なのであろう。
エイルにもエルデの意図は何となくわかった。
あの時、エルネスティーネがエルデに対して感じた恐怖は並大抵のものではないはずである。平常の状態に戻ったエルデが近づいた時の拒絶反応を見ればそれはわかる。
エイルの耳にはエルネスティーネの最後の悲鳴がまだ耳に残っていた。
「アンタにとってはミエリッタとしての最初の勤め、かもしれへんな」
広間を出て行こうとするエイルの耳にエルデのつぶやきが届いた。言葉に反応して振り向いたが、長い黒髪を揺らす後ろ姿があるだけだった。
エルネスティーネが運ばれた部屋は、寝室の一つのようだった。
たいして広くはないが、寝台だけは大きい。
おそらくは大柄なアルヴの体格に合わせて作られているのであろう。デュナンなら大人が二人、楽に眠れるほどの大きさがあった。
その広大とも言える寝台で横になっているはずのエルネスティーネは、エイルが扉を開けた時には意識を回復しており、既に上体を起こしていた。
エルデのルーンは穏やかにエルネスティーネを覚醒させていたのだ。
エルネスティーネはエイルの姿を見ると顔をそむけた。
「えっと」
何から、そしてどうやって切り出していいのかがわからず途方に暮れていたエイルにとってエルネスティーネのその態度は絶望感に拍車をかけた。
だが、エイルが告げようとしている事はかなり重い意味を持つ。拒絶の姿勢を取られたからと言って尻込みするわけにはいかなかった。
「来ないで!」
エイルが次の言葉を探しながら近づこうとすると、エルネスティーネが短く叫んだ。
「え?」
もちろんエイルはその場に釘付けになった。
「先ほどは、恥ずかしいところを……その、見せてしまいました」
エイルが止まったのがわかると、エルネスティーネの声の調子はいつもの柔らかいものに戻った。
だが、顔はそむけたままである。
「え? いや、オレ目を閉じてたから」
「でも、声は聞こえてたのでしょう? あと、音とか……その……ひょっとしてにおいとか……」
そういうエルネスティーネの首から上、つまり服で覆われていない皮膚の部分が真っ赤になっている事に、エイルはようやく気付いた。
理性を失った事に対して恥ずかしがっているのだとわかったエイルは、肩の力が抜けるのを感じた。
何らかの理由で信頼感が壊れ、その為に拒絶されているのではないとわかったからだ。
「いや、恥ずかしがる事はないんじゃないかな。悲鳴は上げなかったけどあのリリアさんですら涙流してたみたいだし……って、においって?」
エイルはしゃべりながらエルネスティーネの言葉の中から引っかかる単語を見つけると、思わず問いかけた。
「いえ、気にならなかったらいいんです。でも……この歳になって……成人してもう二年以上経つのに、いくら怖いからと言っても……恥ずかしくて……」
「恥ずかしい? 大泣きしたって恥ずかしがる事なんてないとオレは思うけど。リリアさんやあのリーゼだって涙流してたんだぞ」
「え?」
エルネスティーネは思わず顔を上げた。
「え? って、そこじゃないのか? ああ、ひょっとして鼻水?」
エルネスティーネはエイルの顔をのぞき込むように見上げたが、そこにはわざとらしさを感じなかった。
一方エイルはエルネスティーネが号泣したり鼻水を流した事をここまで恥ずかしがるのも無理はないと考えていた。そもそもが王女なのだから、そんな姿を人前に晒すのは耐えられないのだろう、と。
「涙が流れたら鼻水も出るさ。人間だもんな。リリアさんも鼻すすってたろ? って、ごめん。失神したんだっけ」
二人の視線は一瞬だけ絡んだ。だがエルネスティーネはすぐに下を向き、膝に乗せた手を無意識に動かした。
そして彼女はその時初めて、自分の服に粗相の痕跡がない事を知った。気を失っている間に着替えさせられたのかとも思ったが、同じ服を二着持っているわけではない。聡いエルネスティーネはすぐにエルデの気遣いに思い至った。
「あなたは……エイルは大丈夫なのですか?」
蚊の泣くような声でエルネスティーネはそうたずねた。
話の流れから想像すると、エイルは粗相に気がついていない可能性がでてきた。
いや。エイルの態度に必要以上に気を遣う雰囲気がない。
エルネスティーネはそれなりに長くエイルを見てきた。目で追っていた。それはつまり、悪い意味ではなく観察をしていた事になる。
だからエイルの性格や態度はエルネスティーネなりに把握していた。
いや、エルネスティーネの観察眼は「それなり」ではない。さすがはカラティアの血と言うべきであろうか。世間知らずのか弱い王女という印象がつきまとうエルネスティーネではあるが、それはずいぶん侮った見方である。
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