第二話 嵐 3/3

「まったく……ツイてない」

 エウレイはそうつぶやくと、観念したように目を伏せた。

「だ、だ、大賢者ぁ?」

 素っ頓狂な声を上げたのは、調達屋であった。

「あ、アンタ、大賢者だったのかよ。それは聞いてないぞ!」

 慌てるベックの様子にエウレイは苦笑しつつ、エルデに習って精杖エマリアを取り出した。

「大賢者も賢者だ。嘘はいっていない」

 長身のアルヴであるエウレイは完全にその場の雰囲気に呑まれた格好のベックの肩を軽くぽんと叩くと、精杖を抱えるようにしてその場に片膝をついた。

 ベックはその姿を見て、ようやくある事に気付いた。おそらく一行の中では最後に気付いたといっていいだろう。

 顔を上げ、視線をエウレイからおそるおそるエルデに移す。

 そう。

 血のような色の瞳を額にいただく瞳髪黒色の美しい娘は、大賢者が膝を突く存在なのだ。

 そしてあまり信心のないベックでも、その高みにある者が「誰」なのかは知識として知っていた。


「エルデ、あなたはまさか三聖なのですか? 三聖では確か《深紅の綺羅》が紅一点のはずですが……」

 ベックの胸の内を代弁するかのような質問を投げかけたのはエルネスティーネだった。

《深紅の綺羅》の件についてはエイルもエルデも一行に何も告げてはいなかった。キセン・プロットとニアレー麻薬の話はしたが、《深紅の綺羅》の体組織云々については「特殊な生体薬」とエルデはぼかして説明していたのである。

 整理をすると、その時点に於いて一行の中でエルデの正体を知るものは、エイルを除けばアプリリアージェとテンリーゼン、そしてエウレイだけである。

 ファルケンハインはエイルの賢者の名を知っているが、その正体までは知り得ていない。

 つまりその部屋に居合わせた……ラウやファーンも含めたほとんど全員が、今目の前で繰り広げられている一連の展開に思考をうまく絡ませる事ができないでいた。


 とはいうものの、耳と目から入ってくる情報が事実であろう事は理解していた。

 三眼を開いたエルデは恐ろしさこそ普段とあまり変わらないものの、その存在感はいつもとは違い圧倒的な質量を持っていた。それは理解や知識というものを越え、感覚的に納得する類のものだ。本能ともまた違う。例えるなら、幼子が母親に対して抱く絶対的な信頼感。そんな感情に近いのではないだろうか。


 ややあって二人がほぼ同時に動いた。

 ラウとファーンである。

 二人ともほぼ同時にエウレイと同じ姿勢をとったのだ。

 エルデは二人の様子を黙ってみていたが、思い出した様にエルネスティーネにチラリと視線を送った。しかしそれは一瞬で、今度は目の前のエウレイに向けた。

 それを見たエルネスティーネは、自分の言葉を無視されたと理解した。

「答えて下さい。あなたこそ私達を欺いていたのではないですか?」

「ネスティ、それは違う」

 答えたのはエイルだった。

「エイル?」

「エルデは《深紅の綺羅》じゃない」

「では何だというのです? 大賢者が三聖以外の誰に膝を突くというのですか?」

「それは……」

「やかましい!」

 エルデは一喝すると再度ノルンを床に打ち付けた。だが今度は音はしたものの、床に振動はない。見れば精杖ノルンの先は木の床を破るように突き刺さっていた。

「こっちの話が先や。後で全部教えたるからガタガタほざくな、アルヴィンの小娘が」

「こ……」

 エルネスティーネの顔が一瞬で紅潮した。

「小娘とは聞き捨てなりません。我が矜持に賭けてそのような侮辱は断じて許しません」

 おそらく本気で腹を立てていたのだろう。尊大なエルデに対しても一歩も引かぬといった表情でエルデをにらみ付けるエルネスティーネに、しかしエルデは答えなかった。

 代わりにエイルに顔を向けると、寂しそうな微笑を浮かべた。

「エイル」

「な、なんだ?」

 エイルは違和感を覚えていた。エルデのそんな顔を見た事がなかったのだ。

「一生のお願いがあるんやけど」

「え?」

「ウチが『もうええよ』って言うまで、後ろを向いて目を閉じといて欲しいねん」

「は?」

「それから、出来たら耳も塞いでいてくれるとええな」

「何だよ、それ?」

「いろんな声が上がるかもしれへんからや」

「いや、それはさすがにオレの質問に対する答えになってないだろ? というか、ものすごく不安なんだが」

「お願いや。何も聞かずに黙って『うん』って言うて欲しい。この機会にいろんな事を一気に片付けたいんや」

「エルデ、お前……」

「心配いらへん。ウチは誰の体も傷つけへん。絶対に、や。そやな……アンタに誓うわ」

「オレだけなのか?」

「うん」

「ひょっとすると、オレだけに見られたくない事をするのか?」

「うん」

「妙な事を言うヤツだな。見られたくない、聞かれたくないって思うなら、そういうルーンをオレにかければいいじゃないか」

「それはしとうない。たとえ同意が得られへんでもルーンでアンタを縛ったり操ったりしとうないんや」

「……そうか」

「うん」

「よし、わかった。今すぐか?」

「うん」

 

 エイルはくるりと背を向けると、目を閉じ、さらに両手で耳を塞いだ。

「いいぞ」

「おおきに。素直なエイルは大好きやで」

「お、おい」

「聞こえてるやんか!」

「だから、手で耳を塞いだって、結構聞こえるんだって」

「ええか? いくら動揺してもええけど、それでも何があっても絶対にウチを見たらアカンで。お願いやから」

「わかったわかった」

 エイルは右手を挙げて合図すると、改めて耳を塞いだ。

 さっきよりも強く。


 エルデはいったい、これから何をしようというのか? 

 一同は固唾を呑んで二人のやりとりを見守っていた。だが、その場で二人だけ、次に何が起きるのかを予想している者がいた。

 アプリリアージェと、そしてテンリーゼンである。

 黒髪のダーク・アルヴは、顔を伏せ、両手で自分の胸を抱くようにしてその場にうずくまった。それを見ていたのだろう。テンリーゼンも自分の両肩を抱くようにしてその場に座り込んだ。

 二人のその様子を見ていたエルネスティーネはもちろん訝しんだ。エルネスティーネだけではない。事情が何もわからないその場にいる全員が二人の行動を不審に思った瞬間だった。

 とてつもない絶望感が全員を襲った。

 同時に痛みとも熱ともとれる、まるで細い針で全身の感覚器官を貫かれたような圧倒的な衝撃に自我が打ちのめされるのを感じた。

 程度の差こそあれ、それは全員に起こった事であった。

 もちろんそれがエルデのエーテルがもたらす空間支配なのだという事を、エイルはすぐに悟った。もともとエルデの精霊波に慣れているエイルですら、瞬間的に冷や汗が吹き出した。

 アプリリアージェとテンリーゼンは「それ」を予測していた事もあるが、それでもアプリリアージェは口から出そうになった声……悲鳴を手で押さえた。

 もちろん衝撃といっても物理的なものは何も無い。しかし体を何かが突き抜けた感覚がずっと続くのだ。


 エルネスティーネは毛穴という毛穴が開き、同時に全身に鳥肌が立つのがわかった。

 次いで訪れたのは圧倒的な恐怖であった。

 根源的な恐怖。

 人が暗闇に対して抱く恐怖がある。あれが意識の奥底に植え付けられた太古から連なる人の根源的な恐怖の記憶だとしたら、それを何十倍、いや何千倍にも増幅したような恐怖に囚われたのである。

 恐怖の元はそれこそ本能的にわかっていた。

 それは目の前の瞳髪黒色の美しい少女がもたらす何かだった。

 見てはいけない……

 エルネスティーネは自分に言い聞かせた。

 アプリリアージェに向けた視線を決してエルデの方向へ動かしてはいけないのだ。

 だが……

 視界に入ってしまっているのだ。

 今の今までエルデ・ヴァイスであったはずの少女が、「違うモノ」になっている様子を。

「うわあああああああああ」

 理性はあっという間に吹き飛んだ。

 だから、声を上げているのはエルネスティーネではなかった。エルネスティーネの体が勝手に声帯を震わせているのだ。

 それは悲鳴ともうめきとも叫びともつかない声で、部屋を満たし、その場に存在し反響機能を有する全ての物体を震わせた。


 エルネスティーネは自立すらできなくなり、その場に座り込んだ。

 エルネスティーネの本能は「助けて」と叫びたかったに違いない。だがいたずらに声帯をふるわせるだけで、言葉にはならなかった。喉から突き上がる声を制御するべき人格が消え失せていたのだから。

 それでも小さなアルヴィンの娘は、叫びながら涙と涎と鼻水で顔がひどい状態になっているのをおぼろげに感じていた。

 そして……座り込んだ場所に広がる暖かいものがある事を。

 エルネスティーネはあろう事か失禁していたのだ。


「堪忍や」

 声は「人ではない何か」から発せられた。

 それを合図に「嵐」は去った。

 エルデはしゃがみ込んだままのエルネスティーネの側に寄ると、手を差しのべた。

 だが……

「いやああああ」

 エルネスティーネはエルデの手が肩に触れた瞬間、一段と大きな悲鳴を上げると、這ったままで逃れようとした。既に三眼も閉じ、元の表情に戻っているエルデを見ても、愛らしい表情をゆがめたままで逃げようとしたのである。

「ティファ・エファ・リルダ」

 そんなエルネスティーネの様子を見て、エルデは伸ばした手を引くとそうつぶやいた。同時にエルネスティーネの叫び声は止み、部屋の中に静寂が戻った。

 エルデは続いていくつかの短いルーンを唱えた。

 それは主に自分の排泄物で濡れ汚れたエルネスティーネを清浄する為のルーンであった。


「おおきにエイル。もう、ええで」

 エイルはその声を合図に、弾かれるようにエルデを振り返った。

 そこには悲しそうな表情でうつむくエルデがいた。

 エイルがエルデに声をかけ損ねたのは、エルデがエルネスティーネをその胸でしっかりと抱きしめていたからではない。

 エルデの目に涙が浮かんでいたからだった。

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