第九十話 油断 3/3

 ミリアはイースをきわめて高く評価していた。ミリアの計画を彼女は一度で理解したのだ。そればかりか、ミリアの計画を補完する計画をその場で提案してきたというのだ。

「イエナ三世という名前は彼女の提案なんだよ」

 すばらしい機転だとミリアは言った。

 有名な歴史箪であるハンネ=ローネ回廊の伝説はミリアももちろん知っていたから、二つ返事で取り入れたのだという。

「彼女はすこぶる頭がいい。周りの人材に恵まれたならば、間違い無く歴史に名を刻む賢王になるだろうね。しかるに本物のエルネスティーネ様はイースの話だと人の心に響く言葉を紡ぎ、その言葉よりも早く体が動く人物らしいですから、私に言わせるなら二人が王になればシルフィード王国はこの時代に最も輝くのは間違いないよ」

 ミリアのその言葉に、リーンは思わず胸をドンと叩いてこう返した。

「いかにも。必ずそうなりますとも!」

 リーンのその態度を見て、フリストが目を細めた。

「冷徹な策士と聞いていましたが、どうしてどうして。実に熱い男ではないですか」

 それはフリストからガルフに向けられた言葉であった。もちろんリーンに対する評である。

 その言葉にリーンははっと我に返ったが、ガルフはうれしそうに声を上げて笑った。

 その時、馬車の小さな窓から夜が明けようとする空が見えた。




「現時点で、我が方の勢力はどの程度ですか?」

 ぼんやりとミリアと出会った時の事を考えていたリーンに、イエナ三世の言葉が届いた。

「え?」

 思わず顔を上げると、目の前にはすでに居住まいを正したイエナ三世が、フリストの隣に座っていた。

「見苦しいところをお見せしました。ですがあまりのんびりもしていられません。現状把握をさせてください」

 イエナ三世の口調は丁寧だった。だがそこには侵しがたい厳しさと威厳が漂っていた。だが、リーンは即座に口にする言葉を見つけられなかった。

「私の正体はご存じですね?」

 イエナ三世は言葉の調子を変えた。

「え? あ、はい。ペトルウシュカ公より聞き及んでおります」

 それだけ言うとリーンは深々と頭を下げた。

「大事なことなので最初に聞いておきたいのです。あなたはイース・バックハウスを助けたのか、それともこれからノッダの玉座に座るイエナ三世を戴くのかを」

 リーンは突然突きつけられた言葉に困惑した。

 だが、考えれば無理もない話であった。目の前にいるのは本物のエルネスティーネ・カラティアではない。『変わり身』たるバックハウス家のイース・イスメネという娘なのだ。

 この計画を実行するまで、リーンはシルフィード王国の為という名目を自身の行動の根幹としていた。もちろん無意識に、である。だが改めて根本的な、しかし簡潔なその質問を突きつけられると、今までその事について考えていなかったことに愕然とした。

 だが……

 馬車の中に居た全員の視線が注がれる中、少しの間を置いて、リーンは座したままではあったが陸軍形式の最敬礼をした。

「これは異な質問を承ります」

 そしてまっすぐにイエナ三世の緑色の瞳を見つめて答えた。

「我が身は常にシルフィード王国の為にあり。御身がシルフィード王国の国王であらせられるならば、すなわち我が命は御身のもの」

「なるほど」

 リーンの答えに、イエナ三世は眉をひそめた。だがリーンの言葉にはまだ続きがあった。

「ならばこそお答えください。御身はイース・イスメネ・バックハウス様なのか? あるいはシルフィード王国国王、イエナ三世であらせられるのか?」

 今度はイエナ三世が口をつぐむ番であった。

 だがそれもほんの少しの事であった。

「リーン・アンセルメ少尉。あなたはミリアさまから聞いた通りの方ですね」

 それはほんのりとのんびりした調子を含む優しい声だった。リーンが知るエルネスティーネ王女の声。シルフィードの宝石と言われた少女が蘇ったようであった。

 だが、その声は一瞬で変化した。

「我が名はイエナ三世。シルフィード王国の国王である」

 それは大葬で初めて人々の前に現れ、同時に堂々たるその存在感を見せつけた新しき国王の声であった。

 その声にリーンだけでなく、ガルフも同時に最敬礼をした。

「頼りにしています」

 二人の態度を見てにっこり笑う笑顔は、もはや少女エルネスティーネではなく、女王の微笑みだとリーンは思った。

 人は王として生まれるのではない。王になるのだとリーンは改めて思った。

 そう、人は……。

 そこまで考えてリーンはミリアに教えられた様々な「真実」思い出した。だが、それを振り払うと改めて自分の新しい「主」をまぶしそうに見つめた。

 一行は早速リーンが把握している情勢を共有する作業に入った。

 実のところミリアの話を聞いてから時間があまりなかったこともあり、ノッダ陣営としての「勢力」は、シルフィード王国全体から見ると、たいしたものではなかった。

 ノッダの守備を任せている一個大体を除くと、現時点で「味方」と言える兵力は、エッダに集合した戦力が全てであったのだ。

 出し惜しみをせず最大の勢力を見せつけることによって大葬参列者の度肝を抜くというのはミリアの作戦であった。とは言ったものの短時間で、それもエッダの近衛軍側に察知されることなく同時にあの場所に集合するのは不可能であった。

 だがミリアはそれができると言ったのだ。そして事実それを実行して見せた。

 もはやリーンはミリアに対する疑いを持続することが困難になっていた。同時にミリアの常識を大きく外れた能力に恐怖してもいた。

 ミリアがその気になれば、シルフィードどころか、ファランドール全体を手に入れることなど実に簡単な事に思えた。

 だがミリアはそれをしようとはしない。

 素朴なそのリーンの疑問に答え、ミリアは目的があるからだと言ったが、その目的については最後まで言及しなかった。ただリーンはうすうす感じてはいた。ミリアのような力で無理矢理に作り上げた世界は、おそらくは虚構なのだと。

 だからリーンは自分たちでやれることをやるのだと決めた。

 何らかの思惑があり、ミリアは今回リーンたちに手を貸した。だがこの先はリーンたちが築き上げるしかないのである。

 フリストに加え、親衛隊に同道してイエナ三世が乗る馬車の近くで待機している二人のル=キリアの兵士は、イエナ三世がノッダに入場するまでの護衛として派遣された、ミリアの最後の「手助け」であった。

 そのフリストがにわかに馬車内の会話を遮った。

「どうされました?」

「部下から緊急の合図がありました」

 普通の人間には聞こえなかったが、自分を呼びかける声を聞いたという。

「とりあえず馬車を止めろ!」

 フリストに強く促されて、リーンは御者台に面した壁にある小さな鎧戸に手をかけた。


 それはリーンがその鎧戸を持ち上げるのとほぼ同時だった。

 開いた窓から、不気味な風切り音を響かせて何かが室内に飛び込んできた。

「え?」

 リーンがそれがいったい何かを認識するよりはやく、フリストが動いていた。

 彼女がやったこと。それは隣に座っているイエナ三世を突き飛ばしたことであった。その次には鈍い音とともにフリストがうめき声を上げた。

「フリスト!」

「少佐!」

 二つの叫びはガルフとリーンが同時に発したものだった。

 彼らの視線の先……フリストの脇腹には、深々と矢が突き刺さっていたのだ。矢が刺さった部分を中心として染みがみるみる広がっていた。黒っぽい服の濡れた部分が、さらに黒さを増していた。

「窓を塞いで!」

 イエナ三世が悲鳴のような声を上げた。

「早く!」

 呆然としていたリーンは慌てて鎧戸を下ろした。

 その時点で何が起こったのかを理解していた者は誰一人いなかった。だが、それが敵襲である事だけは間違いのない事実であった。

「フリストさん!」

 イエナ三世が倒れ込んだフリストを抱きかかえながら、大声で呼びかけた。フリストには意識がないのだ。もちろん呼びかけに反応しない。だから声はどんどん大きくなる。

「目を開けて、フリストさん」

 気丈なイエナ三世の目からは、涙が流れていた。リーンと、そしてガルフでさえ初めて見る女王の涙であった。

「お願い! 死なないで! 目を開けて!」

 必死で呼びかけるイエナ三世を横目に、リーンは血が出るほどに唇を噛んでいた。

 だが、彼が非凡な点はこういう緊急事態にあって感情に流されることを制御できる能力を持っていることであった。

 彼にはフリストにそれ以上かまっている時間はなかったのだ。脇腹から心臓を貫いている矢……すでに床に溜まったおびただしい血。すなわちフリストはおそらくもう助からないであろう事は誰の目にも明らかだった。だからこそイエナ三世は身も世も終わりとばかりに叫んでいるのだ。

 で、あれば自分がやることは一つ。短時間で現状を分析し、現有戦力でできる最大の戦術を構築すること。リーンは常にそう自分自身を訓練していたはずなのである。

 リーンは隣のガルフの顔を見た。

 おそらく同じ方向を向いているであろう尊敬する上官は、リーンの目を見て頷いた。

 今やるべき事はイエナ三世を守りきる事である。守りきり、どうにかしてノッダの新王宮へ入城する事。

 なりふりは構わない。

 自らの失策はこの窮地を脱した後でいくらでも償おう。

 イエナ三世が築く新しいシルフィード王国は、ノッダでの号令から始まるのだから。

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