第九十一話 事実と真実 1/3

 確かなことがあった。

 馬車が止まらないのだ。

 走り続けている。

 ただ、やや速度が落ちているのはわかる。


 ちょうど彼らは平坦で長い直線部分にさしかかっていた。広大な森をまっすぐに抜ける街道が比較的広くなった辺りである。

 矢は前方から射られたものだ。馬車に矢が当たったような音はしなかったが、状況から考えて御者はすでに絶命している可能性が高かった。

「こちらからは何も見えん」

 ガルフは窓から右側の様子を見てリーンに伝えた。リーンも用心しながら自分が座っている左側の様子を観察したが、小さな窓からの視界は限られている。

 リーンは意を決して扉に手をかけた。

 様子を見ながら御者台に出て、場合によっては馬車を止め、反転する必要があった。

 近くにいたはずの護衛の騎馬や馬車から何の合図もないのが不自然であった。どうやら現状はこの馬車だけが孤立している可能性が高い。要するに丸裸同然なのである。


 扉を開くのとほぼ同時に、騎馬が一騎、並んだ。それを見てとっさに身構えたリーンだったが、騎上の人物に見覚えがあった。

「敵襲だ」

 リーンと比べても見るからに頑丈そうな体格。金褐色の髪が特徴的なアルヴである。

「状況は?」

 リーンはそう訪ねたが、そのアルヴは

「そっちに移る」

 とだけ言い放ち、前方へ馬を進めた。リーンが見守る中、そのアルヴは何の苦もなく、軽やかに乗っていた馬から跳躍して御者台に降り立った。

 リーンはそれを見届けると馬車の中に戻った。制動に備えるためである。

 果たして馬車はリーンの予想以上に穏やかな停止を迎えた。御者台に移ったアルヴの制御が巧みだったのだ。


 金褐色の髪を持つアルヴは、馬車を停止させるとすぐに車内に姿を見せた。そして泣きじゃくるイエナ三世に抱かれたフリストの姿を見ると、顔を歪めて唇を噛んだ。

「陛下にお怪我は?」

 だがフリストには触れず、真っ先にそう訪ねた。

「見ての通り、ベルクラッセ少佐のおかげでご無事だ」

「そうか」

 言葉とは裏腹にほっとした様子は一切見せず、そのアルヴはリーンとガルフに向かい、簡単な礼をした。

「どうなっている? コラード少尉」

「は。森に入ったあたりで両脇と後方から襲われました。ですが、敵の特定はできておりません」


 イブキ・コラード少尉。

 正確には少尉ではない。なぜなら彼はル=キリアの生き残りであり、隊長であるフリストと共にミリア・ペトルウシュカの配下となり、すでに自らシルフィード王国軍の籍を返上していたからである。

 彼は現状で知り得た限りの情報を報告した。

 その途中でもう一騎が第二報を携えて合流した。

 そのアルヴもまたフリストの配下であったが、彼は単身ではなかった。彼の後ろには長い木槍を背負ったアルヴとおぼしき長身の少女がいた。

 少女は甘い香りと共にリーンの前に降り立った。モクセイの香りである。リーンはその香りだけで、現れた少女が何者かがわかった。

 それはアルヴではなく、デュアルの少女。モテアの髪を持つスノウ・キリエンカであった。異変を察知した騎馬のアルヴが、後方にいたスノウを自分の馬に乗せて連れてきたのであろう。

 スノウはフリストを見ると馬車内に飛び込むようにして側についた。

 少しの間フリストの様子を見ていたスノウは、膝の上でフリストを抱きかかえたまま泣き止まないイエナ三世をそっと抱きしめた。


「イブキ」

 スノウは、イブキ・コラードに声をかけた。

 その場の誰も、フリストについて何も聞かなかった。すでに聞く必要のない状態であることがわかっていたのだ。

「何だ?」

「馬を借ります」

 スノウはそれだけ言うと、返事も聞かずにすぐ近くでのんきに草を食み始めた栗色の馬の手綱をとった。

「どうするつもりだ?」

「ミリアを呼んで来ます」

「え? 大将はまだエッダだぜ? 手はず通り部隊の最後尾を安全に……」

「だから、あなたのこの馬を借ります」

「待て待て待て」

 慌てて止めに入ったのは、スノウを後ろに乗せてきたアルヴだった。スノウの肩にそっと手を置いて、そのアルヴはスノウから手綱を奪った。

「私は行かなくちゃ」

「いや、無理だろ。後は戦闘中だぞ? 戦場のど真ん中を突っ切るつもりかよ?」

「無理でも行きます。急がないとフリストが……」

 スノウの言葉を聞いたル=キリアの二人は思わず互いに顔を見合った。

 後から来た茶色の髪のアルヴは、手にかけたスノウの肩が震えているのに気づいた。

「気持ちはわかる。だがな、今お前を一人で行かしたら、俺達ゃ二人ともミリアの大将から殺されちまうんだよ。スノウはこれ以上犠牲を出したいのか?」

 その言葉は淡々とした口調だった。だが、スノウの心には深く響いたのであろう。肩の震えが大きくなったかと思うと、こらえられずに声を上げて泣き始めた。

 それはある意味でその場の全員がフリストの死を認めた瞬間でもあった。


 しかし現実は待ってはくれない。彼らにはスノウと共にフリスト・ベルクラッセの死を悲しむ時間はなかった。

(後で思い切り嘆き悲しんでやる)

 二人のアルヴは互いに目と目でそう言葉を交わし合った。

 ル=キリアは選りすぐりの「戦士」で構成された部隊である。今やらねばならぬ事は互いにわかっていた。

 スノウを乗せてやってきた二人目のル=キリア隊員である茶色の髪のアルヴは、クシャナ・シリットであった。ル=キリアでの階級はイブキ・コラードと同じく少尉。ル=キリアは通常部隊とは二階級の特差がある為に大尉相当となる。どちらもリーンより上の階級の人間だが、イブキもクシャナもリーンが拍子抜けするほどざっくばらんで外向的な性格であったため、階級の差などあまり気にせずに接する事ができる相手であった。

 フリストに紹介された時から、二人はリーンに対して友好的で、リーンは当初は戸惑ったものであった。

 だが、そんな彼らをリーンはそのときほど頼もしい、いやありがたい存在だと思ったことはなかった。部隊の隊長であるフリストを失った事に対し、一切の言及なく状況把握して何も語らない。それはリーンですら冷たすぎるのではないかと思うほどきっぱりとした態度で、戦力でない者に対して見向きもしないル=キリアの恐ろしさを垣間見た気がしたものであった。


 戦況は不明であったが、いくつか明らかになっている事があった。

 敵はノッダ軍……あえてノッダ軍という呼び方をしよう……を完全に分断した。先頭を行く部隊と、それに続くイエナ三世を乗せたガルフの馬車の間に少し間が開くのを待っていたかのように分断したのだ。

 脇を固めていたはずのイブキとクシャナが後方に異変を感じて下がった、そのほんの短い隙をついてきたのである。

 親衛隊はすぐに合流するはずだとクシャナは言った。親衛隊に加えて一部の部隊がそれに続き、イエナ三世の守備につくはずであった。こちらから来た道を戻り、できるだけ早く合流するという選択肢は、馬車を牽く馬が二人の御者同様に矢で傷ついている事から、無理であろうと判断された。むしろ今この場所は周囲を見渡せるだけに、敵や味方の動きを把握しやすい。

 最悪の場合は元ル=キリアの二人の風のフェアリーにイエナ三世を預け、なんとか落ち延びる方法を残しながら、ここはクシャナの情報を信じて自軍の到着を待ち、厚い守りを敷いた上で移動する方が安全だというリーンの判断が採用された。

 そもそもできるだけ早くエッダを離れたかったが為に軍の最前方で長く走りすぎた。もともと後方から追ってくるであろう近衛軍に対する壁を築く為に自軍を龍にみたてて長く展開する事は織り込み済みだったが、想定よりも早期に自軍の隊列ががそれほどまで伸び切っていた事には全く気づいていなかったのは参謀としては大失策であった。

 つまり、リーンたちはそこまで完全に油断しきっていたと言うことである。


 今回の計画は誰も知らない電撃的な大作戦であった。そもそもラクジュ街道に待ち伏せが居るなどとはまったく考えていなかったのだ。

 失策と言えば、馬車の客室から御者台に続く窓の鎧戸を不用意に開け放った事も同様であった。狙って射られたものか、偶然飛び込んできた流れ矢かはわからない。おそらくは御者を狙った矢がたまたま逸れたものだろうが、それにしても鎧戸のほぼ正面にイエナ三世を座らせたままにしていた事は万死に値する愚かな行為としか言いようがなかった。

 イエナ三世は間一髪で助かった。だがそれは、犠牲の下に手に入れたものだ。幸運でもなんでもない。本来であれば失うべき命は一つもないはずであった。

 戦って死ねなかったフリストはさぞや無念だろう。それは同じアルヴ族の血が流れるリーンには我が事として痛いほどわかる。

 しかしそれでも感謝せずにはいられなかった。よく助けてくれたと。

 戴冠式のドレスを着たままのイエナ三世は腰から下をフリストの血で染め上げてはいるものの、無傷なのだ。

 リーンは改めて拳をきつく握りしめて唇を噛んだ。

 この失策に対する罰は命をもって償おう。だが、今はフリストの、常人ではおよそ不可能な反射神経が救ったシルフィードの、いやファランドールの未来に続く「芽」を守り抜く事こそが第一義。それをただ力の及ぶ限りやり抜くだけなのだ。

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