第八十九話 金の三つ編み 1/4
「ミリア・ペトルウシュカはかなり特殊なフェアリーのようですね」
ジナイーダ・イルフランはそう言うと、そっとニーム・タ=タンの背中に手を当てた。
表情は硬い。眉間に皺まで寄せていた。
「血を分けた兄弟でありながら、エスカ様とペトルウシュカ公爵は特性も姿形も全く違う。似ても似つかないとはこのことでしょうね」
「そうだな……。私も姉上とは全く似ていないとよく言われた。そもそも基本的に姉上と私は母親が違う。似なくとも納得できるが、エスカとあの金目の男は両親とも同じ本当の兄弟だというのにな」
「そうですね。けれどそっくりであればそれはそれでお辛いのではありませんか? ならば似ていない方が楽なのかもしれません」
ジナイーダは懐から平たい石を取り出すと、それでニームの背中をさすりだした。呪医がよく使う内出血を感知するとぼんやりと光り出す精霊石(ルーン・ストーン)と呼ばれるものだった。治癒の特性を持たないジナイーダやリンゼルリッヒは学んだ知識と、この手の特殊な精霊石を使ってある程度の事までは対処ができる。
だが、ジナイーダの掌の精霊石は何の反応も示さなかった。
「内臓に副作用が出ると言ったそうですが、自覚症状は?」
ニームは首を横に振った。
「大丈夫だ。しばらくの間は強い吐き気がしていたが、それは内臓の調子云々ではなくて、忌々しい話だが、あまりの恐怖で胃が縮み上がっていたからだろう。幸い、今はだいぶよくなってきた」
ニームの答えにジナイーダは安堵のため息を漏らした。
「それならば一安心と言ったところですね。ですが……」
「そうだな。内臓の損傷は必ずしも自覚症状を伴う訳ではないし、すぐに失血や障害が顕在化するわけでもないであろうからな。そもそもあいつの言い方では、失血があるような障害ではないのだろう」
うなずきながらそう言うニームの口調はかなり普段の状態に戻っていた。ニームに落ち着きが出てきたのは良い兆候と言えた。
「ええ。ご気分が悪くなったりしたらすぐにおっしゃって下さいね」
ニームとジナイーダは、存在感を消すルーンを纏って王宮の回廊を足早に歩いていた。
「指定された場所に、その者は現れるのですか?」
ジナイーダの声に心なしか緊張が含まれるようになってきた。その者、とはもちろんミリア・ペトルウシュカの事を指していた。これから対峙するとなると、さすがに平静ではいられないのであろう。
ニームは問われるままにミリアとの一件をジナイーダにすべて話していた。そもそも口止めをされている訳ではなく、ただエスカから離れる事だけを強要されたのである。つまらないウソをでっち上げてジナイーダを誤魔化すよりもそのまま全てを話した方が面倒がないとニームが考えたのも当然であろう。もっともニームにはその場を取り繕うようなウソを考え出すという習慣がなかった。ニームの能力をもってすれば、つじつまが合う素晴らしい虚言を作り上げる事などは造作もない事にも思える。しかしそちらの方面の学習はしておらず、そもそも訓練も未経験な状況で、感情が不安定なままそんな芸当が出来るニームではなかった。そもそも賢者は嘘をつく必要のない存在なのだから。
ニームの話を聞いたジナイーダは、怒りよりも恐怖が先に立っていた。今までその存在すら想像だにしなかった強力な未知なる「力」に、である。
彼女自身が心から畏怖する力を持つニームが、まったく歯が立たなかった相手である。たとえ待ち伏せの罠であろうと、そんな事は些細な問題であった。纏っているエーテルが強大なルーナーの前では、中途半端なルーナーのルーンは効力を発しないし、フェアリーのエーテルを利用した力も同様である。強大な精霊波は、弱い精霊波など飲み込んでしまうのである。
つまり、ミリアの持っている精霊波はニームを軽く飲み込んでしまうほど強大だという事になる。
だが、そんな存在をジナイーダは知らなかった。おそらくニームですら知らないであろう。
だからこそ恐怖なのである。正体がわからない強大な力ほど恐怖心をかき立てるものはない。
「わからぬ。だがおそらくあいつはいないだろう。『明日の大葬で大きな事件が起こる。それが合図だ。すぐに指定する場所に行け』と言われたのだからな」
「なるほど」
「来い」ではなく「行け」という事は、おそらく本人はそこにいないだろう。それはジナイーダもニームと同じ考えだった。
「ここだ」
半歩先導して歩いていたニームが突然立ち止り、そう言った。
「ここは……?」
回廊が尽きる場所。要するに壁であった。
正確には王宮の「右翼」と呼ばれる建物の地下一階の回廊の一番端であった。
「そこではない。この部屋だ」
壁を見渡しているジナイーダに、ニームはそう言った。手にはいつの間にか精杖セ・レステが握られていた。
「ジーナは意外に早とちりだな」
ニームはそう言うとくしゃくしゃな顔に小さな苦笑を浮かべて見せた。それを見たジナイーダは優しい眼差しで小さな主の手をとると、そのまま引き寄せてそっと抱きしめた。
「ようやく笑って下さいましたね」
「ジーナ……?」
「大丈夫です。相手が例え神だとしても、全てが相手の計算通りに運ぶわけではありません。そもそもニーム様の存在が計算外だったわけですからね」
ジナイーダが言いたい事はニームに伝わっていた。扉の方を向いて立ち止まったニームを尻目に、わざわざ壁が目的の場所なのかと尋ねたジナイーダの小さな戦術も。
「駄目だ、ジーナ」
ニームはそう言うとジナイーダの腹に顔を埋めた。背が低すぎて、胸に顔を埋められないからである。
「そんな事をされたら、また泣いてしまうではないか」
ジナイーダはそんなニームの髪を愛おしそうに撫でた。
「涙と鼻水でぐしゃぐしゃのニーム様もまた愛らしくてたまりません」
「バカを言うな」
「あら、本当ですよ。でも……」
ジナイーダはそこでニームの体を離した。
「エスカ様にはちょっとお見せできませんね」
「……そうだな」
「今度お会いになる時はまぶたの腫れていない、いつも通りのすっきりとした愛くるしいお顔でなくてはなりません」
「私は愛くるしいのか?」
「ええ。私が見てもそうなのですから、エスカ様がごらんになるニーム様はきっと食べてしまいたいくらいのすてきなお顔です」
「そうか。それはなんというか、うれしいな。うん。ジーナの言うとおりだ」
ニームはそう言うと念を押すようにもう一度袖で顔を拭った。
「私も、ニーム様に負けぬよう、今度リリに会う時はとびっきりの笑顔を身につけて、ハッとさせてやるつもりです」
「え? 今何と言った?」
「ニーム様がエスカ様にお会い出来るようになる日まで、私もリリには会いません」
「それはいかん、ジーナ……」
ニームは言葉はそこで遮られた。ジナイーダに再び思い切り抱きしめられたのだ。
「駄目ですよ、ニーム様。私はニーム様と同道するとお約束したではありませんか」
「……」
口と鼻を塞がれているニームがもがくが、ジナイーダは知らぬ振りをしてさらに強く抱きしめた。
「だから、自分一人だけでここに入ろうなどというお考えは捨てて下さい」
「ぐ……」
少しの間、言葉にならいような声を漏らしていたニームだが、やがて観念したように体の力を抜いた。それを見たジナイーダの顔には安堵の表情が浮かんだ。
「同じ目的がある女同士じゃないですか。仲良くやりましょう。私はニーム様の母であり姉であり、時には憎たらしい喧嘩友達としてずっと側にいます。同様にリリは私に会うまでエスカ様の微妙な頓知袋として側にいてくれるはずです。彼は性格がとびきりいいわけではありませんが、あれでなかなかどうして、ニーム様のご想像以上にエスカ様のお役に立てるはずですしね。つまりニーム様と私がたどり着く先は同じなのですよ」
「ジーナは母で姉で友人なのに……リリは微妙な頓知袋なのだな」
涙混じりながら、ニームの声には穏やかさが戻ってきているのがジーナにはわかった。
「まあ、微妙ですね。でもそれは実戦を経験していないからでしょう。賢者としては末席ですが、それはエクセラーの能力の順列。あの人のけっこうな悪巧み能力を知れば、きっと参謀として欲しがる権力者は多いはずです」
「エスカはあれでもそう言うところには妥協はしないと思う。実績がないのだとしたら、側近として取り立てるのは判断材料がないだけに難しいのではないか? いくらリリが求めてもエスカが必要ないと判断すれば、申し出をあっさりと断るはずだ」
「本当にそう思われますか? 一番近くでエスカ様を見ていたニーム様らしくもないご意見ですね」
「と言うと?」
「私の見立てでは、ルーナーでもフェアリーでもないエスカ様が持っている一番の力はあの美貌だけではなく、人を見る目にあるという結論です。それは唐突に現れたニーム様を受け入れ、心から大事にされている事ですでに証明されています。ですからエスカ様がリリを手放すことはないでしょう」
「人を見る目か……」
ニームはぼんやりとした声でそう返した。
「それこそがエスカ様の本質ではないでしょうか」
「確かにな。だからこそエスカは実の兄であるミリアの恐ろしさを知っているという事なのであろうな」
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