第八十八話 もう一つの別れ 4/4

「賢者には母親だの父親だのという価値観はありません。つまり、それを理由にする事は出来ないはずなのです。ですが……」

「ニームはまだガキで、それを自らの使命だと思い込んだ」

「その通りだと思います。《天色の槢》、いやニーム様は大賢者となり、同時に守護するべき三聖深紅の綺羅が行方不明だという事を知りました。大賢者の行動を縛る物はヴェリタス……正教会の仕組みにはありません。賢者会も同様です。ですから表面上、いやニーム様は自らの意思で自らのやるべき事を見つけ、それを素直に行っていただけなのです」

「そんなお膳立てが出来るのは誰なんだ?」

「おそらくは他の大賢者、あるいは三聖のみでしょう」

「そうだろうな。いや、そのはずだ……」

 エスカのその物言いに、リンゼルリッヒは微妙な違和感を覚えた。

「何か心当たりでも?」

「いや」

 エスカは即座に首を横に振った。

「それはいい。問題はリリ、お前だ」

「私ですか?」

「俺の側にいると言ったな? 俺は火を噴くだけの、しかも正教会の坊主を側に置くわけにはいかねえんだ」

「御意」

「だが、すぐ側で火を噴いたり火球をぶっ飛ばしたりする仲間がいてくれると、実に頼もしいのも正直なとこだ」

「もとより、それがニーム様の意思でもあり、私自身の願いとも合致するものです」

 エスカはその言葉を聞くと、リンゼルリッヒに歩み寄った。

「人を殺さずに、俺を守れるか?」

 エスカのその突然問いかけは、リンゼルリッヒにとっては想定外のものだった。

「どうした? 意外そうだな」

 言葉に窮して困惑した表情のリンゼルリッヒにそう言うと、エスカは視線を窓の外に向けた。

「おそれながら……」

 リンゼルリッヒはエスカの視線を追いながら口を開いた。

「甘い事をおっしゃるのですね」


 エスカは窓の下の中央広場を眺めていた。いつの間にか大きな柵が置かれ、王宮を一般市民から閉鎖した上で、近衛軍と思しき多くの兵士達がその中を動き回っていた。いや、留まる兵の方が多かったかも知れない。多くは広場の途中で出会うと互いに何事かを話し合い、別れてはまた違う兵士と何かを話している。話し終わる度に、兵士の向かう方向は変わり、一定の目的地があるようには見えない。それは一見してわかるほど、統制がなく合理性に欠いた部隊の状況であった。

 名にし負うシルフィード王国の近衛軍がこの様である。大葬が始まる前に見せた、名人が織った布目のような美しい整列を成していた部隊とは思えなかった。

「甘かろうがヌルかろうが、それが俺の戦い方だ。このファランドールを飲み込む為にゃ、それが必要なんだよ」

「それはまた困難な戦術ですね」

 エスカは広場に落としていた視線を再びリンゼルリッヒに向けた。

「もう一度聞く。そしてこれが最後の質問だ。出来るのか、できないのか?」

 リンゼルリッヒは目を伏せるとそのまま片膝を付いた。

「ジーナだと即座に『わかりました』と答えるでしょう」

「そうか」

「『あれ』はエスカ様を守る為なら、平気で約束を破れる女ですから」

「なるほど」

「ですが私は実のところエクセラーとしてはジーナほどの力がありません。つまり……」

「つまり?」

「力がない分、頓知と謀略は私の方が長けています」

「俺はお前のその頓知とやらに期待していいのか?」

 エスカは実のところ、リンゼルリッヒが何を言い出すのか、まったく予想が付かなかった。ましてやジナイーダよりも力が劣っているという話をなぜここで出すのかが理解出来なかった。

 そんなエスカに追い打ちをかけるようにリンゼルリッヒはいきなり話題を転じた。

「グェルダンで、我々に用意して下さった食事の事を覚えていらっしゃいますか?」

「ああ、あれか」

 リンゼルリッヒは航海初日の夜にエスカが二人の為に用意した、二人の好物とジナイーダが呑みたがっていた「幻のワイン」の食事の事を指していた。もちろんエスカがそれを忘れている訳はなかった。

「私はあの時、《黄丹の搦手(おうにのからめで)》ではなく、リンゼルリッヒ・トゥオリラという名前で生きていきたいと思うようになりました」

「ほう?」

「なぜだかおわかりですか?」

「うまい飯を食って、俗世いや、お前達の言葉だと現世(うつしよ)か。ま、どっちでもいいが、そっちに興味が沸いたってことか?」

 エスカの答えに、リンゼルリッヒは苦笑の声を漏らした。

「あなたと言う人は、ざっくばらんなようでいて、どこまでも本音をさらけ出さない人だ」

 リンゼルリッヒはそう言うと顔を上げた。

「ニーム・タ=タンとエスカ・ペトルウシュカ。私はこの二人をすでに主と決めています。主が人を殺すなと命じるのならば、私はただ従うのみ。ただし」

「ただし?」

「出来れば教えて下さい。賢者黄丹の搦手であれば盲目的に命に従う事になんの問題もありません。しかし人間リンゼルリッヒ・トゥオリラは、あなたの向こう側にある未来こそが、戦う意味なのです」

 リンゼルリッヒはそこまで言うと顔を上げた。真っ直ぐにエスカを見る。

「正教会(ヴェリタス)の犬でいるよりは断然面白そうだぞ、と思わせてはもらえませんか?」

「平たく言うと『エサが欲しい』ってことか」

「御意。口当たりの良い食べ物が欲しいわけではありません。口も舌も胃も腸も、ただれて溶け出すような、そんなエサが欲しいのですよ」

「聞いちまったら、ニームのところには戻れねえかもしれねえぞ?」

「それは、戻れるかも知れないと言う事ですね?」

「こいつ……」

「エスカさまがいったい何を知り、何をなさるつもりか存じません。いや、私なりの推理はあります……いや、どちらにしろ一人では何かと物事を決めつけてしまいがち」

「お前の頓知と陰謀が役に立つかも知れない、と?」

「頓知と謀略です」

「そりゃ、どうも」

「ついでに言わせていただくなら」

「なんだ?」

「私は火は噴きません。大道芸人じゃないんですから」

「ああ……」

 エスカは頭をかいた。

「とは言え、必要であれば大道芸人のまねごとも出来ますし、水芸もやれと言われればできます。それから言い忘れましたが」

「まだ何かあるのかよ?」

「先ほど私はジーナよりエクセラーとしての力は弱いと言いました」

「ああ、聞いた」

「エクセラーとしては確かにそうですが、ルーナーとしてはそうではありません」

「は?」

「私は末席ながら賢者の力を持つ者です。エスカ様をお守りする為の強化ルーンも使えます。そんじょそこらの駆け出しコンサーラなどとは格が違います。その点ではジーナでさえ私の後塵を拝する事になります。もちろんニーム様は別格のコンサーラですから比較にはなりませんが」

「なるほどな。エクセラーだが、簡単な強化ルーンくらいはお手の物だという事か」

 リンゼルリッヒはうなずくと、再び頭を下げた。

「お側においても後悔はさせません。なにとぞ……」

「わかった」

 エスカはさらに深く頭を下げたリンゼルリッヒの言葉を途中で遮るようにそう言うと、自らも片膝を突き、腰をかがめた。同じ高さに顔を持っていく為である。

「話してやるさ。そろそろ側近に『全てを知っている人間』が必要な頃合いってやつだろう。その相手がお前なら、これもまた『設計図』にはない展開だがな」

「設計図?」

 顔を上げ、オウム返しにそう言うリンゼルリッヒに、エスカは大きくうなずいた。

「その『設計図』の事を、お前に話してやる。小便チビるんじゃねえぞ」

 一瞬、大きく目を見開いたリンゼルリッヒは、すぐに相好を崩した。

「耐えますよ。チビったりしたら、あなたに一生話のネタにされてしまうのは間違いなさそうですから」

「だな」

 エスカはうなずくとリンゼルリッヒの手をとって立ち上がらせた。

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