第八十八話 もう一つの別れ 3/4

 だが少なくともエスカはそうは思っていないようだった。エスカ・ペトルウシュカにとっては、ファランドールの情勢と関わる程の「事件」にちがいなかった。

 で、なければエスカがニームを手放す訳がない。リンゼルリッヒはそう思っていた。自分にとって涙を流す程に悲しみ、あるいは後悔するほどの存在である。それを追いかけようともせず、現れたリンゼルリッヒにそれを命じもしなかったのだ。ニームと感情的ないさかいがあったとも思えない。利害の問題はあるだろうが、突発的にそれが浮上して問題化するとも考えにくい。

 リンゼルリッヒはニームの顔もチラリと見ていた。二人とも泣きながら別れた事はそれでわかっていた。ニームの泣き顔にしろエスカの態度にしろ、そこにあったのは別れの悲しみであって相手に対する憎しみや怒りではなかった。

 エスカは言った。「リリもジーナと共にニームの側に行き、守れ」と。

 つまり……

 リンゼルリッヒは自分をじっと見つめているエスカの眼差しをその目でしっかりと受け止めながら一つの結論を得ていた。

 二人が別れねばならない何らかの事態が生じたのだ。それは想定されていたものではなく大葬が行われている間に生じたもので、そしてそれはエスカとニームの二人がかりでも攻略の術がない「もの」なのだ。

 リンゼルリッヒは目の前に姿良くすっと立つ、男が見てもハッとするほどの美貌を持つ金髪碧眼のデュナンの青年を改めて観察した。

 ニームとの関係を完全に断とうとしていない事は明白であった。なぜならリンゼルリッヒを側に置く事について、頭から否定はしていないのだから。むしろ側に置けるならば置いておきたいと考えているのであろう。それはエスカがいやがるニームを無理矢理肩に乗せ、その報復として豊かな金髪をぐしゃぐしゃにされ、困った顔をする日が再び来る可能性を捨てたくは無いという意思に違いない。

 だが、それだけの理由でリンゼルリッヒを側に置こうとしてはいないのも、またエスカ・ペトルウシュカという人物の持つ厳しさであった。


「どうした?」

 少し長い沈黙に焦れたように、エスカが促した。

「当然ながら既に戦略は整った上での今日の大葬を迎えたのは確かでしょう」

「ふむ」

「ならば、既に戦略的な軍隊の展開も考慮に入れているはず」

「だろうな」

「私がキャンタビレイ王国軍大元帥の立場であれば、少なくとも今日を基準としてそう大きくズレのない期日を定め、既存の王国軍を戦略的に配置させるでしょう。もちろん、来る内戦と、避けられぬドライアドとの闘いを見据えた配備の為に」

「それで?」

「エッダに集めた戦力は、その戦略的配備とは別の部隊。おそらくは途中で海路をとることになるのでしょう」

「なぜそう思う?」

「サラマンダとウンディーネの領内では、数の面では圧倒的にドライアド軍が優勢です。おそらくは駐留している王国軍の上層部にも今回の事変、いや混乱は予め伝えられている可能性がありますが、それでも彼らの不安を拭う為には、直接その場で役を演じた部隊が援軍に来るのと来ないのでは士気に大きな差が出るのではないかと思います。内乱が生じたら、間違い無くドライアドはサラマンダで動き始めるでしょう。シルフィード王国の外には近衛軍は存在しませんから、サラマンダでは王国軍は本来の王国軍としての行動が可能でしょう。その為にも頭数が必要。すなわちエッダに集まった軍隊の本来の目的地はサラマンダであり、行きの途中でエッダに寄り、女王から激励と重要な役割を受け取った上で戦略に沿った各目的地に向かったのではないかと」

「シルフィード王国は国是として国外侵略は行わない事になっているんだぜ?」

「侵略でも出兵でもありません。補給と交代という名目で事足りるでしょう」

「そうだとしても、ドライアド側への報告の義務はあるはずだろ?」

 リンゼルリッヒはそこでにっこりと笑って見せた。

「『ノッダはきちんと手続きを踏んだはずだ。おそらくエッダが何らかの混乱でその手続きを停滞させていたのではないか? 重要な報告が成されなかった事はまことに遺憾である。ノッダは今後このような事の無いように、政府内組織強化に励むと共に、ドライアド王国との対話を一層密にしたい。ついてはこちらは遷都直後の混乱でノッダを離れられない。よろしければしかるべき人物を国賓としてノッダにお招きした上で、国王自ら謝罪し、懇親の意を伝えたい……』こんなところでしょうか。フェルン様ならばもう少し気の利いた文章にして下さると思いますが」

「招きに応じればそれでも良し。来たら来たでドライアドはノッダのイエナ三世を認めた事になり、外交的に遷都は完成する、か」

「来てもらう方がいいですね。もし近衛軍、いやエッダ側と言った方がいいのかもしれませんが、ノッダとの間に内乱が勃発していたとすれば、ノッダに従わないミドオーバ大元帥側が『反乱軍』であるという外交的な大義名分ができます」

「ふむ」

 エスカはリンゼルリッヒの「見立て」を一通り聞くと、腕組みをして少し考える様子を見せた。

「ミドオーバ大元帥っていうのは相当なルーナーだそうだな?」

「正教会ではサミュエル・ミドオーバはおそらく賢者、それも相応の席次を持つ賢者と同等の力を持つと言われています。要するに私やジーナより強力なルーナーという事です」

「しかもシルフィード王国の双璧の一人だ。政治的には実質的に国の中心と言ってもいい。そんな人間が『反乱軍』の汚名を着せられてこのまま意地を張ってずるずると負け戦に向かって落ちていくと思うか?」

「いえ」

 実のところリンゼルリッヒが一番気にしているのもそこだった。

「ノッダ側の弱点は、ルーナーがほとんど戦力として存在していない事でしょう。言い換えればエッダ陣営には近衛軍の傘下であるバード庁がそのまま残っています。それだけでも脅威と言っていいでしょう。ですがミドオーバ大元帥にはもう一つ隠し球がありそうです」

「お前もそう思うか?」

 リンゼルリッヒはうなずいた。そしてエスカも同じ事を気にしている事を知った。

「新教会と繋がっているのは確かだと思われます」

「だな。堂頭と何らかの関係があるのはまず間違いねえな。正教会側じゃそういう情報を掴んでないってことか?」

「恥ずかしながら」

 リンゼルリッヒはそう言うと目を伏せた。

「賢者会は特殊な組織で、一つの意思を共有するような存在ではないのです。そういう情報を掴んでいるものもいるのかもしれませんが、末席、つまり上席にとっては言わば捨て石のような立場にある私やジーナにはそんな情報は伝わってきません」

「そうか。というか、大賢者のニームも知らねえって事だろう? 賢者会ってのはいったいどうなっているんだ?」

「残念ながらニーム様は何も知らされぬままに使命を帯びてヴェリタスを出られました」「確か大賢者を拝命して三日くらいしかヴェリタスにはいなかったって言ってたな」

「今考えると、何らか、いや誰かがそう仕向けたのかもしれません」

「大賢者であるニームを正教会の本流から排除しようとする意思があるって事か?」

「わかりません。ただ一つ言える事は、ニーム様が帯びた使命は、本来大賢者という立場の人間が自ら行うようなものではありません。我々が、相当数の配下を使って情報収集した後、実際の行動はそれこそ賢者会に諮るべき問題でしょう」

「なるほどな……」

 エスカは腕組みを解いた。

「母親なんだからお前が探せ、か」

 だが、リンゼルリッヒは首を横に振った。

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