第八十七話 ニームの選択 6/6
「わかった。従おう」
ニームはそう言うと閉じた目をゆっくり開けて、その茶色い瞳で金色の目を真っ直ぐに見つめた。
生きて、それを止める。
エスカを守る為にはニームは生き延びる必要があった。たとえ両手が無くとも命さえあればまだ何とかなる。義手をルーンで付ける事も可能だ。無意識のうちにニームはそのルーンを構築しつつあった。
そもそも生きていなければエスカを守る事もかなわないだろう。
「賢明な判断だね」
ミリアは満足したようにうなずくとニームの顎から手を離した。
「長居をしすぎた。ボクはこれで失敬するけど、今の約束を努々(ゆめゆめ)忘れぬようにね」
そしてそう言うと、再びニームの背後に回った。
「君はこの後いったん気を失う」
ミリアはニームの背後に回りそう声をかけると、その手を伸ばしてニームの後頭部を掴んだ。
「だがすぐに目を覚ます。その時にはボクはもう居なくなっていて、君は自由に動けるようになっているよ」
ニームの後頭部を掴んだ指に少し力が入った。
「あ、一つ言い忘れていたよ」
ミリアはそう言うとニームの頭から手を離した。
「ボクが君に使っているこの力は、君たちのルーンと違ってかなり相手の肉体に負担をかけるみたいでね。人によっては重い後遺症が残る。体力のないアルヴィンなら確実に障害が残るが、それは覚悟しておいてくれ」
「後遺症?」
「ああ。どうも内臓のどこかがいかれるらしい。呪医やハイレーンでも治療できないようだよ。まあ、要するにどちらにしろ君は長生きは出来ないかも知れないね」
「長生きなど望んではいない」
ニームがそう言うとミリアはフンっと小さく鼻を鳴らした。
「アルヴ族はみんな平気でそう言うんだよ。デュナンの前で、ね」
「え?」
ニームにはアルヴィンの血が流れている。血の濃さにも依るのだろうが、おそらく普通のデュナンよりは長命であろう。ミリアはその事を知っていて、敢えてそう言う台詞を吐いたのだろうが、意図がはかりかねた。
「君もそのうち知るだろう。今度の戦争が持つ意味をね」
「戦争の意味だと?」
「ま、せいぜい長生きする事だ」
「ま、待て。待って……」
ミリアの言葉の中に、ニームは一瞬何かを見つけた気がした。ひらめきと言った方がいいだろう。言葉や文字ではなく映像が流れていったのだ。それは彼女が出会った今までの人々の顔であった。そこにはアルヴもアルヴィンもダーク・アルヴも、そしてもちろんデュナンもいた。その流れていく多くの顔を見て、ニームは何かに気付いた気がしたのである。
だが……。
閃いたその感覚を確かな物に置き換えようとする前に、全てが闇に転じた。
気付いたのは本当にそのすぐ後だったのだろう。
目を開けたニームの視界に映ったのは王宮右翼と呼ばれる建物、つまりトルマ・カイエンの執務室のある建物の高い天井であった。場所は廊下である。今までミリアに捕らえられていたその場所であった。
うつぶせでなく仰向けに横たわっていると言う事は、おそらくミリアがそうしたからであろう。服も乱れていないところを見ると、それなりに気を遣ったと言う事なのだろう。
ニームはのろのろとした動作で立ち上がった。床に手をついて体を起こす……。
手を突いて……。
(え? )
当たり前のように立ち上がった後でニームはようやく気付いた。
手首の先には手があった。
右手も、そして左手も。
一瞬。本当に一瞬だけニームはミリアとの出会いが夢だったのだと思おうとした。
だが、あの悪夢のような出来事が現実に起こった事なのだと言う事はすぐにわかった。
なぜなら、ニームから少し離れたところにぐったりした黒猫の姿を認めたからである。
それはまるで何かの印のように捨て去られていた。
ニームはもう一度両手に目を落とすと、強く握りしめた。痛いと思うまで握りしめると、目から涙が溢れてきた。
ニームは慌てて涙を拭うと置き去りにされたセッカ・リ=ルッカの遺体をそっと抱き上げて、中庭に降りる階段へ足を向けた。
「そうか……」
エスカはそう言うとため息をついた。
「兄上、いやバカ兄に会ったんだな?」
ニームはうなずいた。
「皆までは言えぬが、あなたと別れるという約束をミリアと交わしたのだ」
エスカはそれには何も答えなかった。
「だが安心しろ。私は《深紅の綺羅(しんこうのきら)》に会い、彼女からあなたの右目を元通りにする術(すべ)を会得する」
「ニーム……」
「まあ、あれだ。《深紅の綺羅》に会ってどうするのか、と色々考えていたのだが、具体的な目標が一つできたと言うわけだ……」
ニームは努めて明るい口調でそう言ったつもりだった。
だが、本人の意志などお構いなしに、涙はどんどん溢れて来た。最後の方は嗚咽で言葉が途切れてしまっていた。
「だから……それまで……体にはくれぐれも……」
「もういい、しゃべるな」
エスカはニームの言葉を遮った。
だが、その声にはいつもの力がなかった。見ればエスカの目にも涙が浮かんでいた。
「エスカ?」
ニームがエスカの涙を見たのは、それが初めてだった。
エスカの涙……それが何を意味しているのかを、ニームは改めて思い知った気がした。
ミリアという名が出た時点で、エスカはあきらめたのだ。
ニームを引き留める事が出来ないと言う事を。
エスカの言葉が途切れ、憮然とした表情に変わった事がその証明でもあった。つまりミリアの持つ力を弟はいやと言うほど知っていると言う事である。
おそらく彼はミリアがニームにさせた「約束」の意味を理解したに違いない。細かい内容などはどうでもいいのだ。ミリアの意志はエスカとニームが一緒にいる事を拒否したと言う事がわかってしまったのである。
「さらばだ、エスカ」
ニームはそう言うとエスカに背を向けて扉を開けた。
だが小柄な少女は、そこでを肩を振るわせて立ち止まった。
「ニーム!」
エスカは意を決したように大切な名を呼んだ。
その声に反応したニームは、振り返るとはじかれたようにエスカの胸に飛び込んだ。
ニームとしては力一杯抱きしめたつもりなのだろう。
だがエスカにとっては弱々しい抱擁に感じられた。もっと強く抱きしめて欲しいという思いがこみ上げてくるのだ。動けないエスカは自分の腕でニームを掻き抱く術がない。強く密着したいと願ってもそこまで届かないニームの小さな力に、もどかしさを感じて仕方がなかった。
だがニームはエスカの心の内を知ってか知らずか、すぐに抱擁をとくと、何も言わずにエスカの唇に自分のそれをそっと重ねた。
だが、甘い口づけにはならなかった。触れた唇は一瞬後にはもう離れていたからだ。
「ごめんなさい」
ニームはそう小さくつぶやくと目を閉じた。そして溢れた涙がエスカの頬を濡らした。
エスカがニームの名をもう一度呼ぼうとした時、ニームの形のいい桃色の唇が少し開いた。だがそれはためらったように止まると、言葉を発することなくそのまま閉じられた。
ニームはそのまま背をむけたのだ。
「エノ・ズーグ」
ニームはそう言ったのだろうか。
エスカが耳にしたニームの最後の言葉がそれであった。
声をかける事は出来なかった。口を開く前に意識が遠のいたからである。
完全に意識が消える前に、エスカはしかし、ある人物に対して呪詛の言葉を呟いていた。ただ、それは声にはならなかった。その証拠に、その場で肩を振るわせているニームの耳には届いてはいなかった。
(覚えていろよ、バカ兄貴……)
リンゼルリッヒ・トゥオリラとジナイーダ・イルフランの二人が、トルマの計らいでエスカ達のいた部屋にたどり着いたのは、ニームが部屋を出た直後だった。
精杖を手に持ち、顔をくしゃくしゃにしたニームが、袖口で涙を拭っているところへ現れたのだ。
ニームは二人の姿を見ると、目を逸らして駆けだした。
まるでイタズラをした子供が現場を目撃されて慌てて逃げるような様に、思わず二人は顔を見合わせた。
ただ事ではないのはすぐにわかった。こういう時には迷っている時間が無い事を彼らは経験上知っていたと言っていい。
お互いに無言でうなずき合うと、ジナイーダがニームを追った。リンゼルリッヒはジナイーダの背中が廊下の曲がり角で見えなくなるのを確認すると、トルマ・カイエンの執務室の扉をゆっくりと開いた。
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