第八十七話 ニームの選択 5/6

 ミリアに対する謎は、会話を交わせば交わすほどその数がどんどん増していくばかりであった。

大賢者天色の槢ですら知らぬ賢者か。しかも猫とはね。不思議な話だね」

「不思議なのはお前だ」

 ニームは思った事を遠慮無く口にした。怒鳴っているわけでも騒いでいるわけでもない。咎められるいわれはないはずであった。

「ボクの事を不思議だと言っている間は君はボクの敵にすらなれないよ。まあ、もっとも……」

 ミリアはそう言うとニームの背後から気配を消した。なぜなら、初めてニームの正面に立ったからである。

「ミリア……ペトルウシュカ……」

 ニームは思わずその名を口にした。

 初めて見るエスカの兄の姿だった。

 派手だが、品のいい旅装束のデュナンの青年は、意外な事に穏やかな表情でニームを見つめていた。

「義理の兄の顔くらいは知っておいても罰は当たらないだろう?」

 エスカはそう言うとニームの顎に手を当て、上を向かせた。

 動かないはずの首が普通に動く。ミリアが今首から上の拘束を解いたのだ。

 ニームは焦げ茶色の長い髪をした青年の眼鏡の奥の瞳の色を見て、その男がミリア・ペトルウシュカ公爵であると認識した。

 金色の瞳。それがニームの知るミリアの特徴であった。

 およそほとんどの人間が美男だと認めるエスカと違い、端正ではあるが、兄は弟ほど容姿が優れているわけではない。だがニームは、その金色の瞳を見つめているうちに吸い込まれそうな気持ちになる自分を不思議に感じていた。

 一連の所作から、狂気に彩られた表情の人間だと思っていた。だがその姿を見せたミリアは、どこかはかなげな影のある普通の青年貴族と言った風情だったのだ。

「なるほど。エスカはこういう顔が好みなのか」

 ミリアはそう言うとニヤリと笑ってニームの顎に当てた手を離した。

「エスカの好みなど私は知らん」

 ニームは精一杯の不機嫌さを声に乗せてそう言ったが、頬が少し上気するのを制御する事は出来なかった。

「おやおや。君はエスカの事になるとてんでダメダメだね。大賢者が聞いて呆れる」

 ミリアのその言葉はニームの顔をさらに赤くした。だがニームは抗議の言葉を許されなかった。

「もう一度聞く。この猫の正体を君は知らないんだね?」

 ミリアは微笑を消すと、ニームを再びのぞき込んでそう尋ねた。

「名は知っている。何度か話をした事もある。いろいろな情報を私に伝えてくれていた事も確かだ。だが正体は知らん。それは私の方こそ知りたいくらいだ」

「なるほど」

 ミリアはニームの答えを聞くと右手の中指で、ずり落ちてもいない眼鏡を押し上げた。

「嘘ではないようだね。だとすると厄介だな」

 何もかもを知っているような口ぶりだったミリアが、その表情に浮かぶ困惑の色を隠さなかった。

「セッカはあなたが殺したのか?」

 ニームの問いにミリアはこともなげにうなずいた。

「さっき言ったとおりだ。もっとも息の根を止めようとしたらもう動かなくなったと言った方が正確だけどね」

 そう言うとミリアはかがんでセッカの背中の首の部分をつまんで持ち上げた。

「これは仮死状態じゃない。完全に死んでいるんだよね」

「その死体をどうするつもりだ?」

 黒猫を胸に抱きかかえるようにしたミリアにニームは思わず声をかけた。

「どうもしないさ。ここに捨てていくわけにもいかないだろう? それとも君の死体と一緒にここに積み上げておこうか?」

 穏やかな口調でそう言うミリアに、ニームは何も言わずに唇を噛んだ。

「この猫の事はまあいい。それより話を元に戻そうか」

 ミリアはそこで少し言葉を切ると、再びニームの顎を手で持ち上げた。

「ボクはね、別に殺生が好きな狂人ってわけでもないんだよ」

 ニームはそれには応えなかった。ただ、睨み付けただけである。

「その目。嘘付けって思ってるね? いやいや。その証拠に慈悲深いボクは君に一つ提案があるんだ」

「提案?」

 ミリアははうなずくと、ニームに笑いかけた。

「ボクの言う通りにすれば命だけは助けてあげるよ」

 その傲慢な物言いにニームは思わず反応しそうになったが、開いた口をすぐに塞いだ。

「いい子だ」

 それを見たミリアは、ニームの頭を撫でた。

「今叫んでいたら、君はもう二度とボクの顔を見る事は無かったと思うよ」

 静かな口調だが、その言葉はニームの背筋に冷たい物を流す力を持っていた。

「提案を呑むか呑まないかは君が決める事だ。ボクの言う事には一切聞く耳を持たないなどと言わず、聞くだけ聞いてみないか?」

 ニームは悔しさを隠さず唇を強く噛みながらも、首を立てに振った。それを見たミリアは満足そうな微笑を浮かべて口を開いた。

「エスカから離れろ。そして二度と近づくな」

 ミリアの出した条件は、今のニームにとっては「死ね」と言われるのに等しいものだった。たとえ体が引き裂かれても離れたくはない相手になってしまっていたからだ。

「君がエスカに夢中なのはわかってるさ。だからこういう条件をつけよう。『ボクの提案を断ったら、君より先にエスカを殺す』」

「なんだと?」

 少し強い声が思わず口をついた。

 だがミリアはそれを咎めなかった。

「君の目の前であいつの首を千切り折ってやる。そう。君の両手を引きちぎったようにね」

 ニームは音を立てて唾を飲み込んだ。そして見るまいと思っていた自分の両手に視線が移るのを制御する事が出来なかった。何度見ても両腕の先に手はない。手首から先は無残に床に転がったままだった。

 ニームはその手がエスカの首に見えて思わず目を閉じた。

 閉じた目尻から自分でも押さえきれない涙が溢れた。

「敢えて言っておこう。これは命令だ。実は明日の大葬でイエナ三世がちょっとした事件を起こす……」

「え?」

「事件について、君はその内容を知る必要はない。とにかくその事件が合図だ。君はエスカの元を去らなくちゃならない」

 お前は何者だ? 

 ニームはそう言いかけて言葉を呑んだ。同じ質問を一体何回心の中で叫んだろうか。ニームだけではない。目の前の金目の青年はイエナ三世に直接会い、そして何かを画策をした事はもう聞くまでもない事のように思われた。

「言っておくけど、ボクは嘘はつかない男だ」

 どこかで聞いた台詞だとニームは思った。

 エスカであればこう続けるところだ。

『冗談は言うけどな』 と。

 だがその兄はまったく違う台詞を口にした。

「一度ボクの力に冒された人間の行動は、手に取るようにわかるようになっているんだ。君が約束を守らない場合は君を動けなくした上でエスカを無残に始末するよ」

 それは胸の奥を冷たく強く突くような声だった。

「その時は君の瞬きさえ許さない。泣く事も叫ぶ事も出来ない。君はただエスカの胴体と首がちぎれて離れていく様を見つめる事になるだろうね」

 ミリアが言葉にした光景を想像しまいとすればするほどその場面が克明に脳裏に浮かんだ。思わず目を閉じても無駄な事だった。自分の手首がもぎ取られたようにエスカの首もいとも簡単にちぎり捨てられるのだろう。金色の眼を持つ目の前の男には、それが出来るのだ。身をもって体験しているのだから。

「ボクの意に沿わない駒など邪魔なだけだからね。その駒に力があるほど邪魔な度合いが強い。排除は早めに行わなければならないのさ。掌の上で踊ってくれているエスカが君にこだわるようなら用無しだ。本来ならこんな条件など出さずに有無を言わさず縊(くび)り殺したいところなのさ。でも、君さえ居なければ彼はまた自分のやるべき事を思い出すだろう。それに今ならまだ修正は効く。そうなればあいつも死ぬ前にボクのためにもう一働き出来るというわけだ」

 それはすなわち「もう一働き」したら用無しだと言う事なのか? 

 少なくともニームはそう捕らえる事にした。

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