第八十七話 ニームの選択 4/6

 ニームはそう言いながら自分の手をじっと見つめていた。エスカの手をなでさする暖かい感触がその手から確かに伝わってくる。間違い無く自分の手だ。

 だが昨夜、ニームはその手をエスカの兄、ミリア・ペトルウシュカによって奪われていたのである。

 それもまた確かな事だった。

 その時の事を思い出すと、ニームは思わず目を閉じ、ゴクリと喉を鳴らして唾を飲み込んだ。




 前夜。ミリア・ペトルウシュカはニームが気絶する事すら許しはしなかった。すぐに覚醒させられたのだ。

 一瞬の闇から現実の世界に呼び戻されたニームは、否応なく絶望的な自分の姿をその目で確認する事になった。

 肘から先がもぎ取られて、存在しない両の手。もとより動く事はできないが、当然ながら手指からの感触はない。せめてもの慰めは痛みを伴っていない事であろうか。

 ニームはまた叫びそうになるのをかろうじてぐっと堪えた。

 その気配を感じたのだろうか、背後に居るはずのミリアが声をかけた。

「そうそう、これは君のモノだろう? 一応返しておくよ」

 そう言ってニームの足下に、黒い物体が放り出された。

(これは? )

 猫であった。

 全身が黒い毛に覆われていたが、胸のあたりに一部特徴的な白い毛がある。それは三日月の形をしていた。

 ニームはその猫に見覚えがなかった。

「おや、君の手下じゃないのか」

 またしてもニームの心の中を読んだかのように、ミリアは怪訝な声でそうつぶやいた。

「ふうむ……」

 ニームは後ろに居るはずの人物に、初めてかすかな動揺が生じたように思えた。それよりこの猫が一体何だというのだろうか? 

 できるだけ自分の手を見ないようにしながら、ニームは猫を観察した。ぐったりとして微動だにしないところを見ると、既に事切れているようであった。腹も動かないのだから、つまり息をしているとは思えなかったのだ。

 体が固定されているニームでさえ、呼吸にあわせて胸の動きはあった。

「大声を出さないと約束するなら、もう一度だけ口をきけるようにしてあげるけど、どうだい?」

 どうだい? と言われてもどうしようもない。口がきけないのだ。しかも動く事すらできない。心の中で承諾するしかないのだが……おそらくそれでいいのであろう。

 ミリアはニームの心の動きを読めるに違いないと言う事はすでにわかっていた。だがそれなら敢えて口をきけるようにする必要は無い。

 つまり……。

 ニームはようやく少しだけ回復した理性を使って判断した。

 ミリアはニームの心を完全に理解するわけではないのだと。

 感情の動きから推測はできるが、複雑な「会話」はさすがに不可能なのだろう。

 ニームは考えた。「大声を出さない」という条件を呑む事に自らの矜持は傷つく事はないはずである。納得が出来る。

「よし、約束だ」

 承諾の意思が伝わったのであろう。ミリアはすぐにそう言った。

「あ……」

 小さく声を出してみた。自分の声が耳に届いた。なぜかわからないが、懐かしさがこみ上げてきた。そして悔しい事に同時にまた目頭が熱くなった。

「この猫は君の手の者じゃないんだね?」

 ニームが声を出せるようになった事は当然ながらミリアにも伝わっていた。すぐに冷たい声で質問が飛んだ。

「違う。初めて見る猫だ。……死んでいるのか?」

 自分の声が涙声なのが、ニームは悔しかった。涙だけなく、情けない事に鼻水も出ていた。ミリアにそんな声を聞かせたくはない。顔を見られたくない。ニームにとってそれを許せるのはファランドール中でただ一人、エスカ・ペトルウシュカだけなのだ。

「ただの猫じゃないよ。ボクの言う事を聞かず、いきなり何かのルーンを唱えようとしたからね。相手の正体がはっきりしないし、何かあっても面倒だから念のために息の根は止めさせてもらったよ。でも君の手下ではないとするといったい……」

 ニームはそこである事を思い出した。

 そもそも彼女が部屋を出る原因になったもの。その気配の持ち主の事を。

(まさか? )

 改めて足下の猫を見た。

 どう見ても猫だった。

 だが、ミリアは言ったではないか。『ルーンを唱えようとした』と。

「じゃあ質問を変えよう。この猫はセッカと名乗ったんだけど、その名前も心当たりは無いかい?」

(!)

 ニームの予想は当たった。

「セッカ・リ=ルッカが猫……だと?」

 床に横たわる黒い物体。それは何度見ても猫だった。少なくとも人間には見えない。

 セッカ・リ=ルッカ。

 それは現名である。本当の名は《月白の森羅(げっぱくのしんら)》だと名乗っていた気配だけの賢者の姿が、人間ではなくてこの猫だというのか? 

「悪い冗談だ」

 思わずそう口をついたニームに、ミリアは言った。

「ボクがなぜ君に、そんなつまらない嘘をつく必要があるんだい?」

 ニームはハッとした。その通りだと思った。

 そもそもセッカは自らの姿をニームの前に現した事がない。ニームのルーンの力をもってしてもその姿をあぶり出す事が出来なかった為、彼女はそれが《月白の森羅》という賢者の特異な能力の一つだと考えていた。

 だが、敢えて姿を見せない理由がもう一つ理解出来なかった。賢者同士であれば姿を隠す必要などはない。

 それについてニームは様々な仮説を頭の中で構築してはいたがどれも腑に落ちるようなものではなかった。だが、少なくとも人間ではないなどと思った事も無かったのだ。

 だが相手が猫だとしたら今まで一度も姿を見せなかった事も十分に納得のいく話であった。

(いやいや)

 納得などできない。

 猫が賢者になどなれようはずもない。大前提がおかしい。明らかに間違っている。

 だが……。

「《月白の森羅》」

 ミリアは次にセッカの賢者の名を告げた。

「この猫はそう名乗ったんだけど、ボクの知る賢者の名簿にそんな名はないんだよ。《天色の槢》としてはその名を知っているのかい?」

 ニームは首を横に振った。名前は知っているが正体は知らない。そしてそう心の中で補足した。


《月白の森羅》とは「欠落した名」なのだ。何らかの事情でその欠落した名前が復活する事もあるのであろう。その辺りについてはニームも深く知っているわけではない。不明な部分はあやふやな理屈を使って自分自身を納得させていただけである。

 それよりも驚くべきはミリア・ペトルウシュカである。彼は「賢者の名簿」と言ったのだ。賢者会の一員でもない限り、そんな物を所有しているはずがないのだから。

 いや。

 賢者会の一員であっても名簿そのものを所有する事などできない。名簿を閲覧する権利を持っているだけなのだ。賢者会では備忘録として名簿を個人的に作成する事すら禁じられている。記憶というあやふやな紙に記す事ができるだけだ。

 もちろんミリアも所有しているとは言っていない。「ボクの知る賢者の名簿」と言っただけである。

 だが、どうやって見たのだろうか? 

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