第八十七話 ニームの選択 3/6

 王宮右翼のトルマ・カイエン元帥の執務室、つまりエスカとニームが王宮前広場の事件を眺めていたその部屋では、今まさに別の事件が持ち上がっているところであった。

「何のつもりだよ?」

 そう抗議するエスカは、ベッドに横たわっていた。

「すまんな。少しの間辛抱してくれ」

 それに答えるニームはエスカの枕元に精杖セ=レステを手にして立っていた。だがその声には抑揚が無く、エスカを見下ろす顔は今にも泣き出しそうに歪んでいた。

「どうしたって言うんだ? 今日はお前、朝から少し変だぞ」

 ニームはゆっくりと手を伸ばすと、指でエスカの頬にそっと触れた。人差し指をつっと滑らし、エスカの唇をなぞるように動いたかと思うと、次に右目を覆う包帯へと移動した。

「ニーム……」

 見れば、いつの間にかニームの額に第三の眼が現れていた。そして茶色の瞳が濡れたような赤に変化している。

 明らかにおかしいニームの様子に、エスカはようやくただならぬものを感じ始めていた。

「あなたはたぶん、私を引き留めようとするであろうからな」

 そういうニームの声は涙声だった。気持ちを抑えきれなくなったのだ。

「今の私は、あなたに抱きしめられたら抗えなくなってしまう。だから拘束するしかないのだ。許せ」

 ニームはエスカをベッドから動けないようにルーンをかけたのであろう。エスカが必死に動こうとしている様が表情から伺えるが、もちろんその体はぴくりとも動かなかった。

「約束を違えてしまうが、あなたとはここで別れなければならない」

 涙声の主の赤い瞳から落ちた涙の粒が、床にいくつもの染みを作っていった。

「訳がわからねえぞ。とりあえず理由を説明しろ。何があったんだ?」

 エスカは考えを巡らしていた。昨夜の事件が直接的な原因で今の状態になったとは考えにくかった。しかし、今朝のニームは夕べとは明らかに違う雰囲気であった。

 つまり、エスカが眠っている間にニームに何らかの心境の変化があったのは間違い無いと言えた。

「何があった? 俺が眠っている間に誰かに会ったんだな?」

 ニームは鼻をすすり上げるとかすかなため息をついた。

「まったくあなたは鋭い人だ……」

「誰だ? 誰に会った? いや、誰でもいい、そいつに一体何を言われたか知ったこっちゃねえが、俺の側を離れる事は許さねえぞ。絶対にダメだ」

「悪いがそうも行かぬ。色々と約束をさせられたのだ」

 ニームは大きく首を左右に振ると、堪えきれなくなった涙を袖口で拭った。

「私とて……あなたと別れたくはない。あなたにかわいがられて、私は心地よくて、嬉しくて、恐ろしいほどの幸せに溺れて、もうあなたの虜なのだぞ? だから私はもう、あなたから離れられない女になってしまった。別れたくない、離れたくない。ずっと側で抱きしめ合っていたい。そんな事は当たり前ではないか」

「だったら」

「でも……すべては詮無き事。もうどうしようもない……仕方がないのだ」

 嗚咽混じりにそれだけ言うと、ニームは隠しからハンカチを出してハナを噛んだ。

「どうして涙と鼻水は一緒に出るのだろうな」

 そう言って力なく笑うニームを、エスカは必死の形相で睨み付けた。

「おいこらチビ助、勝手に鼻水垂らしてないで、ちゃんと説明しろ。説明したって納得はしねえが、説明されずにハイさようならなんて俺は絶対認めねえぞ。俺にはお前が必要だ。お前に俺が必要でなくても、俺はもうお前がいないと……」

 エスカの言葉が途切れた。ニームの指がエスカの口を塞いだのだ。

「ありがとう、エスカ。その言葉を聞いただけで私の胸は熱で燃えて灰になってしまいそうだ。いや、体全部が溶けて無くなりそうなくらい幸せだ」

 エスカが何かを言おうとする前に、ニームは続けた。

「それ以上引き留めるなら言葉も塞がねばならん。私はあなたの声も大好きだ。その声で引き留められたら私の心は挫けてしまうではないか」

 その言葉を聞いたエスカがため息をつくと、ニームはそっと指を離した。

「私はまだまだ子供で、大賢者などとたいそうな肩書きを持つくせに、実のところ大した力もない事を思い知った」

「誰に会ったんだ?」

 エスカは努めて静かな口調でそう尋ねた。どうあろうと何も知らせられないまま事態を受け入れるわけにはいかなかった。

「勘違いするな」

 ニームはその言葉には反応した。

「言って置くが自分が大した力がないというのはあなたに出会って感じた事だ。夕べの相手の事ではない」

「夕べの相手?」

 エスカは素早くニームを観察したが、特に動揺は見られなかった。思わず漏らしてしまったというわけではないようだ。

「あの者は私を滅することは出来ても、私を支配する事などは出来ぬ。そう言う意味で私にとってあなたより強い人間などこの世には存在しないのだ」

 これほど色気のないつまらない言葉の羅列はない、とエスカは思った。

 だがニームの口からこぼれるその「つまらない言葉」の羅列が、エスカには狂おしい感情が込められた言葉に感じられた。

 それだけに、ニームが遭ったという「夕べの相手」という人物が気になった。気になると同時に胸騒ぎがした。それも、まるで胃が口から出そうになるほどの吐き気を伴う胸騒ぎだった。

「私は……すっかり思い違いをしていたようだ」

 ニームはそう言うと両手でエスカの手を包み込むようにした。

「この大きな手も大好きだ。この手で触られると気持ちが良すぎて意識が飛ぶ。もう自分が誰なのかすらわからなくなってしまう」

 エスカの手は小さなニームの両手を使っても包みきれないほどだったが、その手を何度も何度も撫でるようにしながら話を続けた。

「最初からあなたに近づくべきではなかったのだ。私があなたに対してこんな気持ちになってしまうなどとはつゆほども考えた事がなかった。そんなものは現世の人間達にだけ存在する感情だと信じて疑わなかったのだから、とんだ阿呆だな、私は」

「ニーム……」

「それに、あなたに出会わなければあなたはその大事な……美しい目を失う事もなかった」

「お前のせいじゃ……」

「もう何も言うな、エスカ。あなたが本心で私のせいではないと思ってくれていたとしても、私の中ではこの気持ちは変わらぬ。この先、未来永劫、な……」

 ニームの言葉はそこでいったん途切れた。顔を伏せたニームが嗚咽を堪えようとしているのが、背中の震えでわかった。

「私はなまじ強い力を持って生まれた事もあって、今まで心底恐ろしい目にあった事は無い」

 少しして落ち着いたのか、ニームは再び口を開いた。

「だがな、私はあなたの兄者が恐ろしい」

 エスカはニームのその言葉で、全身に鳥肌が立った。

(やはりか……)

 おそれていた予感、胸騒ぎの先……それがまさに現実のものとなった瞬間であった。

「あいつに、会ったのか……」

 エスカは絞り出すような声を出した。

 ニームはうなずいた。

「会ってしまったと言うべきだろうな。底の知れぬ未知の力を持つ人間……いや、あなたの兄は……あれは人間なのか?」

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