第八十八話 もう一つの別れ 1/4

「ついてくるな!」

 小さな後ろ姿が、悲しそうな背中がそう言った。いや、叫んでいた。

 だがニーム・タ=タンのその言葉は、ジナイーダ・イルフランに対してはまったく何の効果ももたらさなかった。命令は意味を成さなかったのだ。涙が混じった声は、ジナイーダの決心をむしろ固める事になった。

「はじめにお断りしておきます。今の私は命令には従いませんよ」

 逃げる小さな背中に向かってジナイーダは自分の覚悟をぶつけた。こういう事は先に言った方が「勝ち」である。自称「大人」で「人生経験が豊富」なジナイーダはそう思っていた。

 対してまだ「子供」で「世間知らず」なニームは、ジナイーダの「宣言」をなぜか既定のものだと思い込んでしまった。

(命令では止められないのか)

 そう思ったニームは決心すると立ち止まり、即座に振り返って追ってくるジナイーダに正対した。ジナイーダはそれを見ると、自分も走る速度を落とし、ニームの前で立ち止まった。


 ジナイーダは結構走ったと思った。追いかけながらも自分の位置は完全に把握している。二人は今、シルフィード王国の首都エッダの中心部にある宮殿に繋がる建物の回廊にいた。

 そこでわずか三メートル程の距離をあけて見合っている格好だ。

 ジナイーダはニームを見て顔を曇らせた。幼い雰囲気が残りながらも美しく整っているはずのニームの顔は、その面影もない。白い顔は赤く上気し、涙と鼻水でぐしょぐしょで表情は歪んでいた。もちろんジナイーダは自らが仕える大賢者天色の槢(あまいろのくさび)のそこまでひどい顔を見るのは初めてであった。だが、それよりも何よりもニームのその表情があまりに悲しそうで、かけるべき言葉を失っていた。

 直前に何かがあった事は間違い無い。エスカ・ペトルウシュカが休んでいたはずの部屋から飛び出してきたニームの様子が尋常ではなかった為に、それこそ反射運動のように後を追いかけてきたのだが、目の前の小柄な少女の有様を見て自分の行動が極めて的確であったという事しかジナイーダにはわからなかった。

 だが、打ちひしがれたように肩を落とし、悲しそうな目で自分を見つめている少女を哀れんでいる時間はジナイーダには無かった。なぜならその少女は「とんでもない」ルーナーなのだ。

 つまりそのルーナーに力を使わせてはならないのだ。まずはそれを止めねばならない。

 だがここで小細工はいらない、とジナイーダは思った。ニームと心を通わせた時の事を思い出していたからだ。こういう時に必要なのは策ではない。裸の気持ちなのだと。

「お願いです」

 だからニームが次の動作をするより前に声をかけた。

「ルーンを使わないで下さい」

 思っている事を、そのまま。


 結布に触れるだけで、ニームはいくつかのルーンを発動させる事が出来る。ジナイーダは同じルーナーにもかかわらず、その仕組みをニームから何度聞いても理解出来なかった。しかし現実に発動するのだからニームの理論は正しいのだ。信じる信じないの話ではなく認めるか認めないかである。認めないのは勝手だが「それ」は実際に存在する「力」なのである。

 ニームに麻痺や睡眠のルーンでも使われてしまってはもう二度と会えないかも知れない。いや、絶対会えないだろう。ジナイーダはそんな切羽詰まったものさえ感じていた。だからまずはニームと一緒にいられるだけでいいと考えていた。その権利を掴みたかったのだ。

 ニームが「そうなった」理由はおいおいわかる。だからここでそれを聞く必要は無い。いや、聞いてはならない。

 それがジナイーダの「大人」としての判断であった。

「どこに行くにしても一人より二人の方が色々と便利です。私を連れていって下さい」

 ニームは流れる涙と鼻水を拭おうともせず、小さく首を横に振った。

「もういい。これから先は私は一人で……」

「駄目です!」

 ジナイーダは大きな声でピシャリと言った。普段は優しい顔が、今は険しい表情でニームを睨んでいた。

「いいですか? 今ここで私を振り払ったら、私はニームさまについて行けなかった事を生涯悔やみ続ける事でしょう。それは長く苦しい拷問のようなものです。きっと私は、もう二度と笑う事すらできないでしょう」

「ジーナ……」

 まさに今ルーンを発動させようとして結布に伸ばしたニームの手が、ジナイーダのその言葉でゆっくりと下がった。

「ニームさまは私達の事を『仲間』と呼んで下さいました。あの時、私もリリもどれだけ心が震えたかしれません。あれは末席とは言え賢者である我々の麻痺しつつある感受性をたたき起こし、思わず目頭を熱くする程の力を持つ言葉でした」

「だが……」

「付け加えるなら、その言葉が他の誰から告げられても我々の心は躍らなかったでしょう。ニーム様の言葉だからこそ、我らはその言葉が尊いと感じるのです」

 ジナイーダの口調は最初は厳しく、そしてだんだんと優しいものに変わっていった。

 ニームはようやく、あらゆる基準をもってしてもみっともないとしか言いようのないその顔を袖口で拭った。

「あらあら、綺麗な服がぐしょぐしょになってしまいますよ」

 ジナイーダはそう言うと、無造作にニームに歩み寄った。ニームはそれを見ても、もう何も言わなかった。

「それに、一人ではこうしてくれる人もいないではないですか」

 目の前まで近づいたジナイーダは、そのままニームを抱きしめた。ニームはまったく抵抗を見せないどころか、自分からジナイーダの腰に手を回し、そっと抱きしめた。

「ご存じないかも知れませんが、私はニーム様に時々こうしてもらわれなければ、死んでしまう体質になってしまいました」

「馬鹿な事を言うな。ジーナにはリリがいるではないか」

 ニームはジナイーダの胸に顔を埋めたまま、涙声でそう言った。その声には明らかにジナイーダを非難する感情が含まれていた。詰るような物言いと表現した方がいいのかもしれない。

「あらあら、そんな言い方をなさるとは。もしや、やきもちですか?」

 そう言いながらジナイーダは少し強くニームを抱いた。

「ニームさまとリリを比べられる訳がありません。私にとってはどちらも大切な人です。自分の命よりも、です」

「……だから私を守るというのか?」

「いえ。ニーム様はお強い。私は大した力にはなれないでしょう。そのかわりに私はニームさまを叱ったり、からかったり、抱きしめたり、一緒に泣いたりして差し上げられます」

「駄目だ。お前達はエスカを守ってくれ」

「え?」

「私はもう、それが出来ぬのだ」

 ニームのその一言は核心に通じるものだとジナイーダは直感した。

「大丈夫。エスカさまにはリリが付いています。むこうは男同士。ならばこちらは女同士でいいじゃないですか」

「だが……」

「それよりも目的地があるのでしたら参りましょう。ご存じだと思いますが、この王宮は今混乱しています。逃げ出すにしろどこかに向かうにしろ、どちらにしろ急いだ方がいいと思います。何なら私が負ぶっていきましょうか?」

「ばか者……エスカのような事を言うでない」

「エスカさまはおんぶはなく肩車の方ではありませんか?」

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