第八十話 黒猫の飼い主 1/5

「おやおや、お目覚めかい?」

 自分の膝の上で眠っていた黒い猫がうっすらと目を開けて動き出すのを見ると、男は猫に向けてそう声をかけた。

「久しぶりじゃないか、セッカ」

 黒猫は男の膝の上で立ち上がり、大きく口を空けてあくびをしながら背中を伸ばした。「この場合、一ヶ月以上の期間を指して『久しぶり』と定義しているわけだが」


 話しかけながら、男はその黒猫の背中をなでてやった。

 胸に三日月型の白い模様がある以外は見事に全身真っ黒な猫は伸びを終えると自分を膝に乗せている男のさらに上に視線を向けた。その先、つまりはるか頭上には輝く二つの天体が一人と一匹を夜の景色の中に浮かび上がらせていた。

 月の光を受け、黒猫の瞳が輝き出す。まるで二つの月の滴のようにその色が左右で違う。左目は金。右目が青。

 男は黒猫がもう一つ大きなあくびをするのを見ながら、さらに続けた。

「僕が見たところ、君には別段、身体的な損傷はないようだな。にもかかわらず僕の元に舞い戻ってきた。これはつまり君に何か外的ではない重篤な事態が発生したと考えて間違いないということだね。僕からすればこれはそれなりに興味深い現象だよ。何しろ初めてのことだからね。ついては君の身の上に一体何が起こったのかを、考察しやすいように出来るだけ順を追ってつぶさに説明してはくれないか?」

 黒猫を膝に置いた男は、そう言うと猫の背を再びそっと撫でてやった。それを受けて黒猫は気持ちよさそうに目を閉じてごろごろと喉を鳴らした。

 

 男はアイスとデヴァイスという名の月をその水面に鏡のように映し出す、静かな湖の畔に座っていた。

 露避けの黒っぽいマントを羽織り、猫を膝に乗せて一人で月見としゃれ込んでいるように見える。

 頭上と眼下。合計四つの月に照らされた湖の畔で、その男は異彩を放っていた。タダの人間ではないのだ。

 そう。その男の額には三番目の目があった。

 それは真っ赤な目で、血の色をしていた。

 残り二つの目も同様に真っ赤である。夜の湖の畔で、三つの赤い炎が燃えていたのだ。

 三眼の持ち主である男は、座っていても背の高さは隠せなかった。アイスの光で浮かび上がる端正な顔立ちと、髪の間から見え隠れする少し尖った耳。それらは男がアルヴ族である事を証明していた。


「どうもこうもないさ。まったくひどい目にあったよ。いい加減に教えて欲しいな。いったいあいつは何者なんだ?」

 男の呼びかけに対して、驚いたことに黒猫は人間の言葉で答えた。

「だんまりを決めつけてるけど、お前さんはあいつのことを詳しく知っているんだろ、クロス?」

 クロスと呼ばれたアルヴの男は、彼がセッカと呼ぶその黒猫の頭と背中を撫でてやりながら、静かな口調で答えた。

 いや、それは質問に対する答えではなかった。

「全く君は何度言えばわかるんだ? そもそも『あいつ』とは『どいつ』なんだい? まずはその個体特定を僕と共有してからでないと基本的な会話すら成り立たない事を理解するところから始めないといけないのじゃないか? それに『何者』という質問も曖昧すぎるね。名前なのか職業なのか、地位なのか特徴なのか、種族なのか、もしくは相対的な立場を表す言葉を返せばいいのか、ではいったいその相対する相手は誰なのか。君はそれすら特定出来ていないじゃないか。そんな前提で、あまつさえ『知っているのか?』と問われても、僕は一体何をどう答えていいのかわからないよ」

 黒猫セッカはクロスのその言葉を聞くと、わざとらしい大きなため息を一つついた。

「相変わらずめんどくさい奴だな。そんなだから『最悪』なんて枕詞を付けられて嫌われるんだぞ」

「そいつは心外だな。これでも僕は誰からも好かれる存在で居ようと努力しているつもりなんだよ。だからこそこうやって相手の意図に反する答えをしないように、正確な答えが用意できるように、あやふやな言葉だらけの質問を掘り下げて精度を高めようと努力をしているんじゃないか」

「それが嫌われるところだって言ってるんだ。普通の人間というものは、あやふやな会話を重ねながら関係を深めていくものさ」

「これはしたり。猫に普通の人間についての定義を教示されるとは。これは歴史上まれに見る奇っ怪な光景だと言えるね」

「その一言にもムッとするんだけどな」

「僕に悪気などはないぞ?」

「だから余計に腹が立つのさ。お前さん、普通の人間の事も、ついでに言葉をしゃべる黒猫の事も全然わかってないよ」

「心外だ。僕は君の望む答えをできるだけ正確に提示するために、曖昧な部分を極力排除しようとしているだけだというのに」

「ああそうかい。お前さんが『あいつ』について言及するのを先送りしたいんだってことはよくわかった」

「まあまあ。そんなことよりもセッカ、僕は君に早急に報告しなければならない事があるんだ。それはきわめて重要な事柄で、君が察した通り『あいつ』の話より確実に重要度は高い。まずは僕の重要な話を聞くところからしばらくぶりのおしゃべりを始めないか?」

 セッカは再び大きなため息をつくと、抗議の色が混じった声で返した。

「私のこの怒りよりも優先順位が高い出来事が引きこもりのお前さんの周りで起こるはずがないじゃないか?」

「僕は好きでこんなところに引きこもっているわけではないよ」

「お前さんの好き嫌いなんぞどうでもいいよ。私はお前さんの状況を客観的に述べているだけだ」

「ふむ。一理ある。いや、的確な分析における簡潔で的を射た表現だと言えるね。いや、この場合は当を得たという表現の方がより聞くものの心の琴線に触れる可能性が高いかもしれないね」

「どっちでも好きな方を使えよ。どうせまた、目を付けていた蜂の巣が熊に先を越されて駄目になったとか、カケスの子供が無事に巣立ったとか、陸封された鮭の新種を見つけたとか、その魚を焼いて食ったらすこぶる美味だったとか、味付けにたまにはバターを使ってみたい、とか、要するにそんな話だろ?」

「これは驚いた。君はまるで僕の行動を見ていたかのようなことを言う。猫になってもさすがは一席に居た賢者の名、腐ってもタコと言うべきところだろうか?」

「勘弁してくれよ。こっちはお前さんと言葉遊びをしているような気分じゃないんだ。あと『鯛』な。」

 セッカの剣幕に、クロスは困った顔をして頭を掻いた。

「確かに目星を付けていた蜂の巣は三つともまた熊に先を越されて、ここのところ蜂蜜には縁が無いし、カッケーの雛は三羽とも無事に巣立ったよ」

「カッケーって何だ?」

「カケスのカッケーだ。約一年と二ヶ月前に、僕は彼女を指をさしてちゃんと君に紹介したじゃないか?」

 セッカは弱々しく首を振ると、クロスの膝に突っ伏した。

「カケスだからカッケーだったっけ。そういや亀のカメーヌは元気なのか?」

「息子のカメリーノは元気なんだが、哀れなカメーヌの話をすると少々長くなる。ここは先に僕が最も君に伝えたい話からすべきだと思うんだが、どうだね? そもそも……」

「ミリア・ペトルウシュカ」

 セッカはクロスの話を途中で遮るように、ぼそりとそう言った。

「私はあのバカ殿にやられたんだぞ」

「ほう」

「それもお前さんの見立て通りだ。肉体的に損傷を受けて殺されたんじゃなくて、どうやら精神に直接攻撃を受けたようなんだ」

 話の腰を折られたことに特に憤慨するでもなく、クロスはセッカの言葉に反応した。

「君の言葉を借りるとすると、順列的に君はバカよりもダメな位置関係、つまり大馬鹿、という事になるね」

「ならねえよ! 何でだよ?」

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