第七十九話 右目の代価 3/3

 フェアリーはその力を使う時、何も唱える必要は無いのだ。ルーナーと違い座標軸の固定を求められることもない。力の発動は多くの場合一瞬で、それを全力疾走しながらでも行えるのがフェアリーなのだ。

 ニームは絶望の淵に沈み込む意識を気力で引き上げると、『敵』の特定に集中した。敵がわかったところで何の動きも出来ないのならどうしようもない。しかしそれでも何かが起こった時に有利になる要素は一つでも多い方がいい。それに何よりそうすることで正気を保つことが出来そうだった。

 ルーナーではないという事は相手の特定に対する選択肢が無限大に広がった事を意味しそうだが、むしろニームには絞り込みがたやすいと思われた。

 エスカ・ペトルウシュカの事を知る人間。しかも気安く呼び捨てる事が出来る立場の人間である。ニームとエスカの仲をも知っている人物。

 おそらくはエスカに近しい人間であることは間違い無い。

(フェルン・キリエンカか? いや、あいつとは声は違うし、何より漂うエーテルが異質だ)

 声を作ることは簡単にできるだろう。だがその人間が纏う本人にも気付かない気、つまり纏わせるエーテル波は人により全て違う。ニームはエーテルを操るルーナーの常で、人が纏うエーテルを感じる能力が常人よりも高かった。

(フェルンはもっと赤い色を意識させるが、コイツのエーテル波はまるで……)

 ニームは自由になった目を大きく見開いた。少しだけ似ているエーテルを彼女はよく知っていたのだ。普段はほとんどエーテルの波動を感じさせない人物だが、ニームを抱きしめる時には明確なエーテルの色と波動を見せてくれる存在であった。

 同じではないが背後から感じるエーテル波は、そのエスカのものに符合する部分があった。

(まさか……)

「ご名答」

 何も口に出来ないはずのニームに、背後の声はそう答えた。それはニームの心の声を全て聞いているかのような応答であった。

 いや……。

 ニームは改めて今までの敵の言葉を辿ってみた。するとそのすべてがニームの心の内に反応したかのような的確な言葉になっているではないか。

(心が、読めるのか? )

 それは相手に対する問いかけのつもりだった。それに答えたなら、もう間違いはない。

 だが、『敵』はあくまでニームの思惑とは違う方向を見ているようであった。

「君としゃべれないのはつまらないな。どうだい、君が大声で叫んだり間違ってもルーンを唱えたりしないと約束するなら口の拘束を解いてあげるよ」

(わかった……)

 即座にニームは心の中でそう答えた。頭の中に浮かんできたいくつかの事柄が言葉になる前にそうしたのだ。

「いいだろう」

『声』はそう言った。

 ニームはそれを受けてため息をしてみた。声が出る。

「アックム・フェ・ダラ……」

 いきなり認証文を唱え始めたニームの声が止まった。約束を一瞬で破ったニームは元通り声を拘束されてしまったのだ。

(くぅ!)

 あと一音節だった。

 こんなことがあった時に使うための緊急避難用のルーンだったのである。ほんの一秒で詠唱が終わるはずであった。ルーンを唱え始めた事を理解しても、拘束される前に発動するはずだったのだ。

 それが一瞬で止められた。

「ほらね。君はそう言うところが子供なのさ」

 落ち着いた「声」がそう言う。驚きも、そして怒りも感じないその声を聞いてニームは目を閉じた。

 そして確信した。

 相手はニームの行動を完全に予想していたのだ。

「君は今まで大きな失敗などしたことがなかったんだろう? でもその安直で直線的な行動が大きな悲劇を生むんだ。時にそれは取り返しのつかない結果になる。だいたい君は数時間前にそれについて身が割かれるような思いで反省したばかりじゃないのか?」

『声』が言っていることが何を意味するのかをニームはもちろんよくわかっていた。文字通り体が引き裂かれるような思いの中で自らの行動の稚拙さを呪い続けていたではないか。

 いや、今もその気持ちは変わらない。

「まったく、ひどいにも程があるとは思わないか? ボクの可愛い弟の右目は、頭に血が上った君によって奪われたんだからね」

(やはり、ミリア・ペトルウシュカ公爵か!)

 エスカを弟と呼ぶ人間はファランドール中探してもただ一人である。

 だが、ペトルウシュカ公爵はその弟であるエスカに故郷の森の町エイビタルに軟禁されているはずではなかったのか? 

「どうしてくれるつもりだい? 君もよくわかっていると思うけど、弟はあの美貌が武器なんだ。特にあの空をそのまま宝石にしたかのような青い瞳はあいつの最高の売り物なんだよ。それを君は側室の分際で奪ってしまった」

 ミリアの声はニームの胸をえぐった。

 流せるのならば血の涙が流れているはずであった。悔やんでも悔やんでもおそらく一生悔やみ続けるに違いない。ミリアに言われるまでもなく誰がなんと言おうとエスカの右目を奪ったのは自分なのだと思い続けていたからだ。

「君は償いをするべきじゃないのか? 罪に対して、いやこの場合はエスカの右目の代価を支払うべきじゃないのかい?」

 冷たさを増したミリアの声が耳に届いた。

 床にぽつぽつと何かが滴るのが、おぼろげな視界に映っていた。それが自らの流した涙だと理解もしていた。だがニームはもう自分を拘束する敵の前で涙を見せるなど許し難い事だと感じる気持ちも失せていた。

 再び、ただ自らが犯した取り返しのつかない過ちに押しつぶされていたのだ。

「そうだな。同じ右目でもいいけど、それだと鏡を使わなければ自分の冒した罪を確認できないな。じゃあ、嫌でもその二つの目に映るこの部分なんてどうだろう?」

 今度はニームのすぐ後ろでミリアの声がした。それは息がかかるほどすぐ近くからの声だった。

 だがそんなことを意識する暇をミリアはニームに与えはしなかった。

 ミリアはこれまでと同じように何の迷いもためらいも、さらには前触れもなくニームの右手首を掴んだかと思うと、ニームが心で何かを叫ぶ前にその手首から先を思い切りねじ曲げるようにしてちぎり取ったのだ。

 誰もいない夜の廊下に、何かが折れるような鈍い音が響いた。骨と皮膚と肉が一瞬で折られ、引きちぎられたのである。

 ミリアはそれをいとも簡単にやってのけた。相当な腕力がなければ片手でそんなことができるはずがない。しかしミリアはこともなげにやってみせたのだ。

 どうやらニームはミリアの未知の「能力」により体を硬化させられている様だった。しかも相当もろい……風化寸前の枯れ木のような硬化なのがミリアの仕草でよくわかった。

 不思議と痛みはなかった。衝撃もない。ニームはまるで他人の腕が切り落とされるのを見ているかのように自分の小さな手首から先の部分が、見知らぬデュナンの手に握られているのをぼんやりと見つめているだけであった。

 ニームは目に映る光景が信じられないと言うよりは、見たものがあまりに衝撃的でほとんど思考が止まっていた。

 何の威嚇も前触れもなく、いきなり少女の手首を引きちぎるような人間がこの世に居ると言う事を彼女は受け入れる事ができなかったのだ。


 ニームを正気に戻したのは床に何かがぶつかる硬質な音だった。

 半透明で乳白色の石で出来た環状の物体が床に落ちる事によって生じた音であった。

(セ=レステ!)

 それはニームの精杖、セ=レステであった。普段、右手首に腕輪として填めているものだ。

 その音がしたと言う事は、すなわち手首から滑り落ちたと言う事である。

 なぜだ? 

 ニームは頭を働かせて考えた。

 なぜ、セ=レステは床に落ちたのだ? 

 ちゃんと手首に填めていたではないか? 

 手首? 

「!!」

 正気になったニームは残酷な現実を受け入れる事になった。

 本当に手首から先が無くなっているのである。

 そしてそれは、夢ではないのだ。

 

 自分の体が「壊されている」事を認識すると同時に、ニームは思わず叫んだ。心の中で泣き叫んだ。

 だが……当然ながら声は出なかった。

 まるで錆びたぼろぼろの槍の穂先を断ち落とすように、もしくは細長いつららの先を手折るように無造作に、ミリアはニームの手首をいとも簡単にちぎり取って見せたのだ。

 警告も前触れもなく、いきなり事は行われた。情け容赦がないとはこの事であろう。


「そうだ。そうやって声にならない声で泣き叫べ」

 涙を一杯溜めた目から、ぼろぼろと熱いものがあふれ出ていた。つまり涙腺は活動しているようだった。

 ミリアは床の染みが増え続ける様を見て冷たく鋭い調子でそう言い、続けて押し殺したような低い声で短い言葉をニームの耳元でつぶやいた。

「絶望を噛みしめろ」

 それはニームにとっては忌まわしい呪詛の言葉そのものであった。

 耳元から聞こえるミリアの声に反応するかのように、ニームの両の目からはさらに涙が溢れてきた。自分でも、もうそれは制御が出来ないほどの勢いで涙は頬を伝い、染みの数が増え、それは小さな水たまりのようにその面積を増やしていった。


「でも、この程度じゃ足りないな」

 ぼたぼたという音が聞こえるかのように涙を流し続けるニームに、しかしミリアはさらなる絶望の言葉を投げつけた。

「左手も差し出せ。エスカの右目の代価としてはそれでもまだ足りないくらいだ」

 言うが早いか、ミリアは背後から今度はニームの左の手首を掴むと、右手の時と同様に無造作にねじるようにした。

 ニームは今度も目を閉じることが出来なかった。そして今度は自分の左腕の肘から先が無理矢理ねじ切られる様子を自分自身の目でつぶさに見る事になった。


(うわああああ)

 心の中で、これ以上ない程の悲鳴を上げたニームはしかし、そこで意識を保つ事を放棄した。気を失ったのだ。

 視界が狭くなった。そしてすぐに目の前が暗くなると、ニームの意識は漆黒の闇に落ちていった。

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