第八十話 黒猫の飼い主 2/5

「ふむ。じゃあ、バカの下というところか? 下バカとでも呼ぶのか? それとももう少し上がって中バカか? そうだ、君はこれからチューバッカーと名乗るといい。セッカ・チューバッカー・リ=ルッカだ。ツゥレフ風でなかなかいい名前だよ」

「名付けなくていい! 下とか上とか中とかじゃない。そもそもバカに順列があるのか?」

「いや。物事には程度というものがついて回る。今後の事を考えるとバカについては明確な順列を付けておいた方がいいね。いい機会だからここで君と僕との間でバカという概念に対する暫定的な位を複数個、策定しようじゃないか。そうすると君の立場がお互いに明確になるし、今後の……」

「クロス・アイリス!」

 セッカは立ち上がると、クロスをにらんで毛を逆立てた。

「なんだい、改まって。でも嬉しいな。僕の名前を族名まで含めて正式に呼んでくれるのは、もうこの世界では君とイオスくらいだからね」

「いやいや。今はそんな事はどうでもいいって言ってるんだよ」

 セッカは憮然としてそう言った後で、すぐに表情を変えてクロスを見上げた。

「え? 今、何て言った?」

「おや、気付いたかい? なら、大バカは返上だな」

 セッカはゴクリと音をさせてつばを飲み込んだ。

「だから、僕の話を先にきいてもらえないだろうか? それよりセッカ、あんまり僕の膝に爪を立てないでくれないか」

「まさかクレハが……消えたのか?」

 クロスは視線を黒猫から天空の双び月に移すと、ぼんやりと明暗に別れた月を眺めた。

「おい、クロス!」

「君の言う消えるという言葉の定義がまたしてもあやふやだな。ファランドールから一意の存在として特定できなくなる程にその形状を変化させる事を消えるというのなら、そうなのかもしれない。意思や感情が多少なりともあり、自発的行動を起こせる個体がその役目を終えた瞬間をもって『消えた』と呼ぶのであれば、クレハはもうずっと前に消えている事になる。そういう意味ではクレハの状態についての本質は変わっていないともいえるね」

「何も変化がない……わけじゃないんだよな?」

 クロスは月を見上げたままで小さくうなずいた。

「彼女が作った結界が弱まった。今の状態ではほとんど無きに等しいね。そのおかげで、僕は初めて彼女の所在を把握する事ができるようになった」

「私が目を付けてたタ=タンの小娘が役に立ったって事か? だとしたら私の働きも無駄にはならなかったって事だな」

「ふむ。では一つ質問するが、君がクレハを救出する為の道具にしたタ=タン最後の生き残りは、アリス一族の最後の『個体』を携えてハイデルーヴェンからヴォールに移動していると言う事なのかい?」

「ハイデルーヴェン? ヴォール?」

「結界が弱まった直後、僕がクレハの気配を感知したのはハイデルーヴェンだよ。そしてその気配は移動して、今はヴォールにある」

「詳しく聞かせてくれ、クロス」

 そう言ってさらに爪を深く立てるセッカにクロスは一瞬顔をしかめたが、すぐにやれやれといった風に一つため息をつくと、首を横に振った。

「だから僕はさっきからまず僕の話を聞きたまえ、と言っているじゃないか」

「お前さんはいつだってめんどくさいんだよ。回りくどいんだよ。結界が消えたなら消えたって最初に言えばいいだろう? もしくはクレハ・アリスパレスが誰かに連れ去られたとか。そう言われたら私だってあの忌々しいバカ殿の事よりお前さんの話を優先させてるさ」

「僕はそう言ったつもりだったんだが、何事においてもまずは双方の理解度を一定の基準で平均化する必要があるからね。すなわち意思疎通の確認作業を行おうとする前に君がミリア・ペトルウシュカに関して何やら興奮しだしたんだよ」

 その言葉を聞いたセッカは、両前足の爪を思い切りクロスの太ももに突き立てた。

「痛い痛い。これは程度の問題ではなく、明らかに一般的な我慢の限界を超える痛みだ」

「最初から『あいつ』がミリアの事だってわかってるんじゃないか!」

「そりゃあ君、君が関係しているであろう人間の中で、仮にも元一席賢者である君を出し抜ける人間など、僕が知る限りではペトルウシュカ公しかいないじゃないか?」

「相変わらずお前さんは話し相手としては最悪だな」

「待ちたまえ。最悪というのは言葉の定義上、最も悪いという意味だが、それは相対的な上下を表すものではなく、絶対的な位置を指すものだよ。そもそも単独で使うにはきわめてあやふやな言葉の一つだ。何しろ君の言葉には限定すべき範囲がないんだからね。範囲を限定して使わないと、森羅万象の中で最も悪い、という意味になってしまうだろう? だからわかりやすい様に言わなければいけないよ。この湖の畔にいるアルヴの男の中で最悪なのか、黒猫を膝に抱いている亜神の中で最悪なのか、はたまた……」

「やかましいっ!」

「心外だな。僕は平均的な成人男子のしゃべる速度より二割もゆっくりと、加えて四割程静かな音量で語っているはずだよ。これでやかましいと言われると……あ、そうか。僕とした事が猫の聴覚という要素を加えた解釈をするのを忘れていた。こいつは悪かった」

「いや……もういいから本題に入ってくれないか? この調子だと話し終わる前に夜が明ける」

「まさか。この地点の夜明けまでにはまだ五時間以上あるよ。君が心配するほど僕の話は長くはないんだ。そうだな。まだ一度も計測してはいないが、平均的な成人アルヴが話す速度で概ね一分程だ」

「短かっ。だったらさっさと話してくれ」

「そうしたいのは山々だが、既に僕は君との会話の中で言いたい事の全貌は話してしまったような気がするよ」

「え?」

「クレハ・アリスパレスは我々が想定していたエッダには存在せず、ハイデルーヴェンにいたこと。そしてクレハは何者かによってハイデルーヴェンから連れ去られ、現在はヴォールにいること。それによって僕を閉じ込めていた彼女の結界がほぼ無効化したこと。話というのはそれだけだからね」

「お前さんと話していると、なんだか全部がどうでもよくなってくるな」

「これはしたり。僕の話は黒猫には面白くないかね?」

「そこは黒猫限定じゃなくて、それこそ森羅万象がそう感じるだろうさ」

「やれやれ」

「やれやれじゃないよ。なんでお前さんは結界が消えたって言うのにまだこんなところにいるのさ? さっさとここを出て、やりたかったことをやればいいじゃないか。私はそう言う身も蓋もある話を聞きたいんだ」

「君は僕の言ったことをちゃんと聞いていなかったようだね」

「なにがだ?」

「結界は消えたのではなく、弱まったんだよ」

「移動は出来ないのか?」

「この世界を認識する力は戻ったよ。でも結界から外の空間には出られそうもないね」

「そこは重要だろ? お前さんのさっきの説明だと消えたも同然って捉えるだろ? 普通の人間は!」

「君は猫じゃないか」

「やかましい。それはどうでもいいんだよ」

「ふむ。じゃあ、結界の話はどうでもいいという事にして、まずさっき君が言った身と蓋についてだが……」

「そこもいいって言ってるんだよ! 頼むよクロス。私にこれ以上爪を立てさせないでくれよ」

「爪は君の意思で立てるものだろう? 立てたくなければ立てなければいいだけじゃないか。めんどくさいのは君の方だよ、セッカ」

「お前さんをぶん殴ったらさぞかし気持ちがいいだろうな、って今思ったよ」

「それは物騒な思考だな。しかし……」

「しかし?」

「殴るなら優しく殴ってくれないか? あ、爪は無しの方向で頼むよ。顔の傷は治りにくいんだ」

「優しく殴ったらスカッとしないだろ? 私はこのやり場のないイライラを解消したいんだよ。爽快な気分を味わいたいんだよ。気持ちよくなりたいんだよ」

「では君の気が済むように、今度僕そっくりのクロスちゃん人形を作っておこう。それなら僕には痛みが伝わらないから思う存分スカッとしてもらえるよ」

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