第七十六話 血の記憶 4/6
ジナイーダはついさっきニームの事でエスカを非難した自分の言葉が話を逸らされて体よくごまかされた事を認識していたが、それについては何も言わなかった。自分が言わずともエスカ自身がそれを痛いほど感じている事がわかったからだ。
エスカは葛藤している最中なのだ。いったい彼が最終的に何をしたいのか、正妻にしようとしている相手が誰なのか、それはまだわからない。そしてそれを今尋ねるべきではないだろう。だが、それは彼が今まで全身全霊をかけて積み上げてきた計画の一つの到達点であり、おいそれと譲れるものではないと言う事だけはわかる。
そこまで考えて、ジナイーダは自分の考えが全く的外れだったのかもしれないと思い至った。
エスカは自らの計画の修正を試みようとしているのではないだろうか? ニームを正妻として、それでも最終的な目的にたどり着く道筋を探しているのかも知れない。
だがそれは……
それは
ジナイーダも、そしてリンゼルリッヒとて大賢者が一体どういう存在なのかを全て知らされているわけではない。むしろ大賢者と賢者会に所属する普通の賢者とは隔絶しすぎていて想像すら及ばない。もともと大賢者は賢者会には属していないのだ。賢者会の上に独立して存在している者達なのである。
ジナイーダ自身、大賢者全員に会った事はない。《真赭の頤(まそほのおとがい)》と《菊塵の壕(きくじんのほり)》は見かけた事がある。が、ニームの先代……彼女の実の姉と言われているが……にあたる《天色の楔》には結局会えずにそのままニームに代替わりした。そう言う意味では三人の大賢者の姿形は知っていると言えるだろうが《銀の篝(しろがねのかがり)》にいたっては現在の賢者会の構成員から見たという話を聞いた事すらなかった。
もちろん大賢者とはさらにその上に君臨する三聖の側近であると言う事は知識としては持っていた。だがその伝説の三聖とやらには一度としてまみえた事がないのだ。
賢者という立場にありながら三聖が本当に存在するのかと問われたら確信を持って首を縦に振る事は出来ないであろうと感じていた。
ジナイーダとリンゼルリッヒが仕えている
ニーム・タ=タンというルーナーの少女が《授名の義》を経て賢者となり、時を置かずそのまま大賢者に任命された後、間もなくドライアドのバード庁に入り込む事になったわけだが、ジナイーダとリンゼルリッヒが彼女の護衛役に任命されたのはニームが《天色の楔》になったわずか数日後だったと知らされた時は心の底から驚いたものだ。
ドライアドに入り込んで情報収集を行う事、そのために必要な手続きなどは全てニームが一人で決めて実行した。
そしてはじめは冗談だと思って聞いていた事だが、本当に護衛は末席賢者が二人きりであった。
三聖の捜索に割く人員はたった三人なのである。
しかしリンゼルリッヒとジナイーダも当初から自分たちの真の目的、いやニームの目的は知らされてはいなかった。最初に告げられたのは「ドライアドの王宮に入って情報収集にあたる」という単純なものだった。大賢者自らがそのような地味な仕事に従事するとは思えないので曰く付きの任務である事は承知していた。しかしマーリン正教会の本拠であるヴェリタスを発ってしばらくしてからニームにその目的を告げられた際、俄に信じられなかった程である。曰く付き、どころか末席賢者には荷が重すぎる任務だと思ったからである。
そもそも三聖の
《深紅の綺羅》の一件が事実だとしたらマーリン正教会としては一大事のはずである。一国の出来事に当てはめて考えればわかりやすい。王妃、あるいは王子・王女の一人が行方不明になったようなものなのだ。その捜索に一人の未熟な大臣が部下を二人だけ引き連れて捜索に出るようなものである。
これほどの一大事は国を挙げて事に取りかかるべき問題ではないのだろうか? つまりマーリン正教会の賢者会こそが全賢者を動員し、最優先事項として取り組むべき事柄なのでは?
いや、そもそも他の三聖や三聖の側近である大賢者達はその為にこそ動かなくてはならないのではないのだろうか?
だがヴェリタス……つまりマーリン正教会の本当の上層部の考えている事は、賢者という高みにあるリンゼルリッヒやジナイーダであってもわからない事だらけなのだった。
目の前で肩を振るわせて泣いているニームを見ていて、ジナイーダは久しぶりにそんな事を考えていた。
(なぜこの子だけがそんな重い使命を負わなければならないのだろう? 側近の役を負う者だからか? だいたいこの子は大賢者という役目を担わねばならぬ存在なのだろうか? エスカ・ペトルウシュカと一緒になって幸せになればいいのではないのか? 三聖の捜索はヴェリタスが組織として行うべき問題ではないのか? )
そしてそんな疑問が頭をもたげていた。
少しの間その場を支配していた沈黙を、ノックの音が破った。
「私だ。お邪魔してもよろしいかな?」
落ち着いたその声はトルマ・カイエン元帥のものだった。
声にすぐに反応して、シュクルがドアを開け、本来の部屋の主を招き入れた。
「あ、いや、そのままそのまま」
エスカが起き上がろうとしたのを慌てて制するとトルマは神妙な顔をして詫びた。
「幸い、この老いぼれ、長く生きているおかげで国王陛下に特別に直接お目通りがかなう立場でして、勅命でこの王宮に居るもっとも高位のハイレーンを寄越したのですが……」
「その件はもう言いっこ無しで願いたい、カイエン元帥。無礼は我にあります」
慇懃な挨拶をするトルマの言葉を途中で遮ると、エスカは黙礼した。
そう言われてしまうとトルマとしてもそれ以上言及する理由はなかった。
彼はうなずいてエスカの言葉に対して承諾の意を表した。
「さて」
トルマはそう言うと改めてその部屋にいる面々を見渡した後、シュクルに側に来るように合図した。それを見たニームの顔にわずかに緊張が走った。見舞いとは別のトルマが持っているであろうもう一つの目的を思い出したのだ。
「私にはどうしても気になる事がありましてな」
そら来た、とエスカは思った。だが、トルマの期待に添える回答をエスカ自身は持っていない。むしろエスカはトルマと同じ立場と言って良かった。
答えるべきはシュクルと、そしてニームに違いないのである。
「先ほどはそれどころではありませんでしたからな」
エスカは委細承知という風にうなずくと、まだ顔を埋めたままでいるニームの肩に優しく手を置いた。
「短剣が……いや、お前の結布とグラスの精霊陣もだな。あの訳は話せるか?」
エスカのその様子を見たトルマはエスカ自身がその理由を知らぬ事を悟った。
「実のところ私もかなり驚いてるんです」
これはシュクルだった。腰にぶら下げた懐剣を手に取ると、両手でトルマに差し出した。
「あんなことは初めてです。この懐剣はまさか妖剣と呼ばれる類のものなのでしょうか?」
差し出された懐剣を手にすると、トルマは子細に吟味した。そして少しだけためらった後、鞘から剣を抜いた。
引き出された白っぽい刃は、それがリリス製である事を示していた。刃の形状は単純にまっすぐなよくある懐剣であった。
「元帥が見てわかる様なら私がとっくに気付いていますよ」
熱心に吟味を続けるトルマにシュクルは冷たくそう言い放った。
「持ち主だから気づかぬ点もあるやもしれぬだろうが」
トルマは憮然としてそう言い返したが、素直に剣を鞘に戻した。
「華やかではないが、軽くてよい姿をした懐剣だな。どこで手に入れた?」
そのトルマの言葉に、ニームが反応した。
「私もその剣の出自を知りたい」
顔を上げたニームはいきなりそう言うと視線をトルマの持つ懐剣に注いだ。
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