第七十六話 血の記憶 3/6

 あの後トルマ・カイエン元帥は、我を失っているニームを苦心して正気に戻させると、拘束はそのままにして、まずはマルクの口だけをきけるようにした。

 彼はその場でマルクに誓わせた。エスカとニームに対して国王名代の立場を使った命令を一切行わない事を、である。

「あなたの為に彼は自らの右目を差し出したのですぞ? 名代にとってこの金髪の勇者は命の恩人同様」

「それは……」

 マルクは言葉の拘束が解かれても、もう汚くニームをののしる事はしなかった。衝動が去ってしまえば、ただの小心者なのだ。むしろ自分が引き起こした事の顛末におびえていると言った方が良かった。


 トルマはそこに畳みかけるように脅迫としか取れない言葉を投げつけていた。

「敢えて言わせていただきましょう。本物でも何でもない名代のあなたの為に、ここまで体を張れる臣下が他にいるとお思いか? 矜持と忠義の国のシルフィードにも、これほどの覚悟を持ち、かつ潔く行動に移す者など、今はそうそうおりませぬ。おわかりか?」

 マルクはトルマと目を合わせる事が出来ず、地面を見つめてうなずいた。

「では今この場で、ここにいる全員の前で誓っていただきましょう。あなたが自分の国に無事に帰るまで、この男の指示に従うと。従えないのならばここの忠臣には申し訳ないが、名代の行動はシルフィード王国の法に則って私がしかるべき処置を行うことになりますぞ」

 そう言ってわざわざ威嚇するようにテラスの分厚そうな床板をドシンと踏みならして見せた。

「わ、わかった……」

 マルクは即答した。

 もとよりマルクに選択肢などはなかった。彼はただ一刻も早くこの場から逃げ出したい一心であった。それがかなうならばロバに頭を噛まれてもいいとさえ思っていたのである。エスカに従うくらい何でもなかった。

「一同、お聞きの通りです。よろしいですかな?」

 トルマはそう言って一同を見渡すと、ようやくニームにマルクの拘束を解かせた。

 リンゼルリッヒとジナイーダはそこでようやくその場に姿を現したが、その場の惨状を見てただ絶句していた。



「その後、元帥と打ち合わせてあなたをここに運ばせていただきました」

 シュクルは一通りの経緯を話し終えるとそう言って、話は以上だと言う風に軽く会釈をしてみせた。

「ご心配なく。あの騒動は一切他には漏れてはおりません。それにここはルーンの結界があるので可愛い奥方があなたを心配していくら泣こうが騒ごうが、一切外には漏れません」

 エスカはシュクルにそう言われて改めて胸の上に突っ伏している焦げ茶色の髪をした小さな大賢者に目をやった。

「心配かけたな。すまん」

 ニームはエスカにかけられたブランケットに顔を埋めたままで頭を振っただけで、何も答えなかった。嗚咽は小さくはなっていたが、まだ収まってはいなかった。

「私は同門の人間として、ニーム様を心から尊敬しています」

 エスカ達を見守っていたリンゼルリッヒが、ぽつりとそいうつぶやいた。

「それほどの方です。ですがエスカ様、私も今夜思い知らされました。ニーム様がニーム様である時には、ただの十五歳の女の子なのだと言う事を」

 リンゼルリッヒの言葉にジナイーダも頷いた。

「長くお仕えしていますが、ニーム様の涙を私達は初めて見たのです。この方は泣く事などない特別な人なのだと勝手に思っておりました。それがいかに愚かな考えだったのかを、今夜は嫌と言うほど思い知りました」

「そうだな。でも、もともとけっこう子供っぽいところのあるやつじゃないか」

「いえ」

 エスカがそう言うとジナイーダは首を横に振った。

「それもエスカ様と出会ってからの話なのですよ」

「そっか」

 エスカは小さくうなずくと、いつも隙なくきちんとしているニームからは考えられないほど乱れている髪を、手櫛でそっと整えてやった。

「俺もそうなんだぜ」

 その言葉はニームに向けられたものだった。

 懸命に嗚咽を堪えながら、その言葉を聞いたニームは顔を上げ、泣きすぎて腫れぼったくなった目でエスカを見つめた。

「俺もお前に出会ってから子供みたいな大人になっちまった気がするよ」

 エスカの言葉の意味するところがニームにはわからなかったのだろう。何も言わずに次の言葉を待つニームの頭をそっと撫でると、言い聞かせるような口調でエスカは続けた。

「俺はこう見えてもけっこう素直な人間でな。ここまでは自分のやるべき事をかなり真面目にこなしてきたつもりだ。文句を言いながら、な。だがニームという不確定要素が突然目の前に現れた」

「不確定……要素?」

 ニームの言葉にエスカはうなずいてみせた。

「ああ。ここまでのところは俺がこなすべき計画は驚くほど完璧だったんだぜ。まあ、そのまま最後までいけるとは思っちゃいなかったが、それは全く別のところで生じる困難だろうと思ってた。だが、まさかこんな形で現れるとはな」

「意味がわからない」

「だろうな」

 エスカは寂しそうに苦笑すると、たった今自分が手櫛で整えてやった焦げ茶色の髪をくしゃくしゃにした。

「わかりやすく言うとだな」

「うん」

 ニームはいやがるそぶりも見せずエスカにされるままでそう言ってこくんと頷いた。

 その言葉と様子には大賢者という名前を連想させるものは、もはや微塵もなかった。

「それでいい」

 エスカは眼を細めると優しい微笑を浮かべてニームの頬に手をあてた。

「俺の計画じゃ、一応正妻にすべき女の候補は挙がっている」

 エスカはそこで言葉を切ってニームの表情の変化を観察した。ニームは何も言わなかった。だが、その茶色い瞳が少し揺れたように見えた。

「だがな、俺はそんな計画はうっちゃってお前を正妻にしたくて仕方ねえんだよ」

 エスカがそう言うと、ニームはこみ上げる感情を抑えきれずにエスカから顔を背け、再び大声を上げて泣き始めた。

「エスカ様、おそれながら今の言葉はあまりに残酷ではありませんか?」

 ジナイーダは怒気を隠さずそう言ってなじった。だがエスカはそれには反応せず視線を天井に向けると呟くように言葉を続けた。

「それが出来たら俺自身は満足で幸せだろうなって思ってるよ。不思議なもんだぜ。人間ってのは長年死にものぐるいで築き上げてきたものをこんなに簡単に捨てちまおうって気になるもんなんだな」

「駄目だ」

 嗚咽の合間に、ニームがそう言った。

「あなたは……エスカはこれ以上私の為に……何かを失う事があってはならぬ。失ってほしくない」

「ニーム……」

「なぜ? なぜ、こんなに苦しいのだ? 辛いのだ? エスカ・ペトルウシュカは私の目的の為の手段にすぎぬはずなのに」

 エスカはニームをそっと抱き寄せた。

「俺たちゃ所詮、人間だってことだろ。それに、家族だしな」

 エスカは家族という言葉を強調すると、リンゼルリッヒとジナイーダの方へ顔を向けた。

「知らん顔してるが、お前らも家族なんだぞ。俺の屋敷でそう言ったろ?」

 エスカにそう言われてジナイーダはハッと目を見開いた。

「だからこいつがつまんねえ事を言ったら俺と一緒に叱ってやれ。もちろん、さっきみたいに俺の事も叱ってくれればいい。だいたい、お前達の方が俺より年上みたいだしな」

 エスカの言葉を受けたジナイーダは、緩やかに笑顔を作ると腰に手を当ててエスカを優しく睨んだ。

「若い女性にその言葉は失礼と言うものですよ、エスカ様」

「さっそく叱られたか」

 エスカはそう言うとククっと笑って見せた。

「それから『様』はいらねえよ」

「では、エスカちゃん?」

「――いや……」

「冗談ですよ、エスカ様」

「わかったよ。好きに呼べばいいさ。ジーナ姉さん」

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