第七十六話 血の記憶 2/6

「挨拶が遅くなりました。私はシルフィード王国軍、海軍少佐シュクル・スリーズと申します。もっとも少佐とは名ばかりで今は閑職ですがね。まあ元帥の使いっ走りの様なものです。まるで給料泥棒ですな。わっはっは」

 シュクルは笑顔でそう言うとドライアドの貴族風の礼をした。

 それを見てエスカはベッドから起き上がろうとしたが、上に覆い被さって自分の動きを拘束しているニームの存在に気づいて苦笑して見せた。シュクルはもちろんエスカが起き上がる事を即座に禁じると、歩み寄って片手を差し出した。

 エスカはその手を取りながら改めて自己紹介をした。

「スリーズ少佐はカイエン元帥の補佐官という訳ですか?」

「いえいえ、そんな聞こえのいいものではありませんよ」

 エスカが尋ねるとシュクルは大げさに肩をすくませた。

「以前は文字通り正式な元帥付き補佐官の一人だったのですが、ものの見事に左遷されましてね。さりとて別の軍務が与えられたわけではなし。所属も何も告げられずに宙ぶらりんです。大葬が終わって内部のゴタゴタが落ち着くまで私の処遇など誰も顧みないでしょうね。ですから最近はこれ幸いとばかり、もっぱら自宅で読書三昧です。それにも飽きたらこうやって元帥のお手伝いをしているような次第です」

 シュクルはそう言ったが、その目は笑っていた。あまり深刻に考えてはいないという意思表示なのだろうが、アルヴにしては陽気で、少々くだけた雰囲気のある男だとエスカは思った。

 短いやりとりではあったが軍服のシュクルを見て、彼がテラスで会った時と同じ服装でいる事にエスカは気付いた。ニームも同様である。と言う事はそれほど長い時間気を失っていたわけではなさそうだと想像した。さらに見れば、シュクルの腰には変わらず例の喪章代わりの短剣がぶら下げられている。ただし、その柄はもう光ってはいなかった。

 エスカはそこでニームの結布が外されている事を思い出した。懐剣の柄に呼応するように光っていたのは、懐剣を除くとワイングラスの底の精霊陣とニームの結布だったからだ。

 だがエスカはその事に思いを巡らす事を止めた。さすがにまだ頭がややぼうっとして考えがまとまらない。加えて頭だけでなく体が少々熱っぽい事にこの時ようやく気づいたのだ。おそらく、いや間違いなく目の傷のせいなのだろう。

 そこで今度は考える事ではなく、周りを観察する事に切り替えた。

 部屋はさほど広くはない。落ち着いた焦げ茶色の調度でまとめられている寝室はどうやら元帥の仮眠用の部屋らしかった。左右に扉があるが、その片方が開けられて明るめの執務室の一部が見えた。だがそこには人の気配はなく、つまりこの部屋にいる五人が面子の全てということのようだった。

 フェルンがいないと言う事は、事の始末で忙殺されている最中に違いなかった。


 シュクルの話によると、あれから三時間程度しか経っていないという。エスカが目覚めたのは、丁度治療に当たっていた医者とハイレーンが部屋を出て行ったところであった。「なにぶん、我が国にも高位のハイレーンはもうおりません。バードを名乗る者は皆エクセラーとコンサーラのみ。彼らも医師も、できるだけの事はしたのですが」

 エスカの右目は回復ルーンを使っても元に戻るような状態ではなかったという。

「奥方にはたいそうお叱りをうけてしまいました。力及ばず本当に申し訳ございません。元帥からもくれぐれもお詫び申し上げるとの事です」

 そう言ってシュクルは深々と頭を下げた。

 それは少佐という立場にいる軍人としては異例の辞儀と言えた。軍服を着た軍人は、軍隊式の最敬礼を行うものなのだ。

 エスカは自分の目の事を告げられているにもかかわらず、シュクルという人物を客観的に観察している自分に少し驚いていた。それはおそらく優秀なハイレーンの治癒のおかげで痛みを感じていない事に起因しているのであろうと、これまた冷静に分析している自分に内心苦笑した。


 シュクルの礼になぜエスカが違和感を覚えたのかというと、規律にうるさいシルフィードの軍人であれば軍服着用、つまり公務の間は厳格なまでにその格式に則るはずであると思い込んでいたからだ。

 エスカは文官が行うような礼をしたシュクルに、シルフィードらしく、いやアルヴらしからぬ気質の持ち主である事を感じ取っていた。

 一方でトルマの態度を見れば、シュクルに対して彼の信頼が厚い事は確かである。その信頼はある意味シュクルのそういった気質に起因しているのかも知れないとおぼろげに思った。

「我々の仲間にも、まともなハイレーンは今、たった一人しかおりません」

 リンゼルリッヒはそう言った。「我々の仲間」という言い方をしたのは、もちろんその場にシュクルが居たからである。実際にはドライアドのバード庁には数名のハイレーンがいる。しかし全員が中位の治癒ルーンすら満足に使えない下級バードである。シュクルがドライアドのバードの構成を全て知っているならばリンゼルリッヒの言葉に多少の疑問を持つかもしれないが、彼は「まともなハイレーン」という微妙な言い回しをして見せた。それなりに考えての発言なのだ。

 エスカはリンゼルリッヒの機転と状況判断力に満足していた。同時にやはり賢者は凡庸な人間ではないと言う事を肝に銘じる事も忘れなかった。

「残念ながら特殊な任務に就いており、我々からは連絡が取れません。ですが我々と同列にある彼女の力では、将軍の右目を元通りに戻す事は……」

 これはジナイーダである。

 賢者を名乗るハイレーンは一人。そしてそれは女で、ジナイーダ達と同じ末席賢者であることがエスカにはわかった。

「いや、右目はそもそも交換条件で差し出したもんだぜ。元通りになっちまったら反則だろ?」

 エスカは神妙な顔で側に立つ二人の賢者にそう言うとにっこり笑って見せた。包帯で片目を隠されていてもなお、豊かな金髪を持つエスカの美貌は衰えておらず、その笑顔は二人にはまぶしく映った。

「特殊な呪医ならば、眼球の移植ができるという話だ。必ず見つけ出して私の右目をあなたに……」

「バカ」

 急に会話に加わるように顔を上げそう言ったニームに皆まで言わさず、エスカは優しくその頭をコツンと叩いた。

「すまぬ。確かに私のこの茶色の目ではあなたのその綺麗な碧眼の代わりにはならんな。だが、光彩の色を変えるルーンはある。研究してその左目と同じ色が出るようにルーンを調整して、必ず我がものとしてみせる。それを使えば……」

 コツン。

 エスカは再びニームの頭を小突いた。

「そんな事してお前の右目はどうなるんだよ」

「私の目などどうでもよい。だって、だって……私のせいで……私のせいだ……」

 大粒の涙がまたあふれ出したニームの言葉を遮るように、エスカはその細い腰を抱きしめた。

「心配するな。おれは左目だけでも十分だ。さっきも言ったろ? 片目さえ使えれば可愛いお前の顔をちゃんと見られるんだからな」

 エスカがそう言うとニームは大きな嗚咽を漏らして、また泣き始めた。エスカはその焦げ茶色の髪を撫でてやった。

「『だって』か。お前はそういう言葉もちゃんと使えるんじゃねえか。せめておれと居る時くらいは気を張るのはよせ。いつもの凛々しいお前もいいが、俺はふにゃふにゃになったお前も大好きなんだぜ?」

 ニームはそれには何も答えず、嗚咽を上げるだけだった。

「この状態で悪いが、続きを頼む」

 二人の様子をぼうっと眺めていたシュクルだが、エスカにそう促されると決まり悪そうに咳払いを一つすると説明を続けた。

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