第七十五話 ニームの誤算 5/5
「元帥閣下」
エスカはその場に片膝を突くと頭を深く垂れた。
「この場の失態は全て護衛役たる私の不始末。持病の癇癪を押さえる特効のある精霊陣を我が補佐官が名代の為に各食器に仕込んであったのですが、ペシカレフ公爵は繊細な方ゆえ、そのような効能を知らされるとかえって効きが悪くなると私が判断して告げておりませんでした。小細工の嫌いな誇り高きペシカレフ公爵が不幸にもこの場でそれを知ることとなり、思わず持病の癇癪の発作を起こされた次第。すなわち私の浅考が生んだ不始末とご理解下さい。そのペシカレフ公爵をルーンで止めたのは、補佐官である彼女が上官である私の命を救わんが為の、いわば我が命令を忠実に遂行したにすぎません。これもすなわち我が指示の不徹底。ただし、そのおかげでこの美しい王宮を我が血で汚すことなく事を収められた次第。以上、事情をご勘案いただき、なにとぞ不徳の我が身には相応の罰を。ペシカレフ公爵、タ=タン大佐の両人にはご厚情賜りたく」
言い終わって頭を下げたエスカに、間髪入れずに声をかけたのはトルマではなく、光る懐剣の持ち主であった。
「失礼ながら、見え透いた言い訳が見事すぎてあきれて物も言えませんな」
「控えろ、スリーズ少佐」
見え透いた言い訳と都合のいい申し出なのはお互いにわかっている事であった。トルマはここでエスカの言葉を全否定する前に、とりあえずエスカと話をしようと思ったのだ。ニームの存在を含めて、エスカという人物はそれだけ彼の興味を引いていた。
この場の状況で自らが全ての罰を背負おうとする人物がドライアドという国にいた事がまず興味深かった。デュナンの王国は彼にとっては利己主義の権化であった。エスカがアルヴであれば、まだ理解ができる。しかし彼は典型的なデュナンであり、トルマにとっては自らの欲望が最優先である種族のはずだった。
そのデュナンが、まるでアルヴのように自分を楯として上の人間を守護し、かつ部下をも守ろうと口にする事があると言う事実はトルマには新鮮な驚きであった。
しかもエスカが守ろうとしているのは使えている人間とはいえ自分を今まさに衝動的な怒りで傷つけようとしたその相手である。
口先だけの交渉上手か、それともエスカの言葉は彼の本心なのか、それをトルマは知りたかった。それは彼が押さえようとしても押さえられぬまでに成長してしまった自分の国の中枢に対する不信感を、別の「清いもの」で紛らわせようとする逃避行為そのものであったが、トルマ自身はもちろんそれを自覚しての行動であった。
トルマがわざわざ呼び寄せたスリーズ少佐の言葉をとっさに封じたのには訳があった。スリーズ少佐はアルヴであるにもかかわらず、厳格で杓子定規な規律をことごとく嫌い軽んじるところがあったからである。
この場でスリーズ少佐が介入してしまうと、一大事を一大事とも考えない彼の価値観によって、結果として何事も無かった事にされかねない。それではさすがにこの一大事の目撃者、いや当事者と言っていいトルマ・カイエン元帥としては責任の追求を逃れられない。ただでさえ立場を追われつつある今、それは致命傷にもなりかねなかった。
そしてそんな事をおそらくは百も承知のはずの彼の腹心、スリーズ少佐はしかしそれでもあえてそうするに違いないからである。
彼はそもそもかねてよりトルマを引退させたがっていたのだ。
そもそもトルマがスリーズ少佐を自分の手元にしばらくおかなかったのは、その引退話でいつも口論になってしまうからであった。
だが、そんな経緯があろうと無かろうと、肝心な時には晩餐の宴に呼ばれていないスリーズ少佐をわざわざ呼びに行かせる程である。トルマにとってもっとも気の置けない人間である事は間違い無かった。
「今回の件、ただでは済まぬ程の相当な不始末だと言う事は承知しておられるようですな?」
「御意」
「ふむ。で、この場にいるのが王国軍大元帥の儂だと知った上で、ご自分の命一つで二人分の罪を不問にして欲しい、とこう言われるわけですな?」
「いえ」
その問いにはエスカはすかさず首を横に振った。
「違うのか?」
「もちろん、私はまだ死にたくはございません」
「なんと申した?」
「こう見えて私もまだやりたい事が色々とございます。ここで命脈尽きるのは何とも口惜しい限りです」
「正直な心情であろうが、それは先ほどあなたがご自身で口にした言葉とは矛盾しませんかな?」
「相応の罰、とは申し上げましたが、命まで差し上げるとは申し上げてはおりません。正直に申しますと、一から百までカイエン元帥の、我が矜持に対する温情頼みでございます」
「矜持だと?」
エスカの口にした一言でトルマの口調が変わった。
「小賢しい事を口にするでない。デュナンの小僧」
その言葉を聞いたスリーズ少佐の顔色がにわかに曇った。エスカはそれを見逃さなかった。だが、彼は既に覚悟は決めていた。トルマがどう出ようとやる事は一つだと。
「まさに私は小僧ではあります。しかし、小賢しいとは思ってはおりません。元帥閣下」
「その物言いが小賢しいと言うのだ。そもそもお主は矜持を示してはおらんではないか。二人の人間を口でかばうだけなら、赤子でもできるわ」
「これはしたり」
エスカはそう言うと、またもや深々と一礼し、そのまま懐から懐剣を取り出して目の前に置いた。
柄に描かれているのは四連の赤い野薔薇。ペトルウシュカ男爵のクレストであった。
トルマはそのクレストにもちろん見覚えがあった。だが、彼が知っているのは白い四連薔薇のクレスト、すなわちペトルウシュカ公爵家の紋章である。同じ意匠で色が違うその紋章を見て、トルマは初めてエスカの素性をおぼろげに知る事になった。
「何の真似だ?」
「恐れながらシルフィードの元帥職は超法規的な措置をとれる場合があると聞き及んでおります」
「それがどうした? 今はお前の矜持の話をしておる」
「そしてシルフィードは矜持を尊ぶ国。特にカイエン元帥はシルフィード王国の国風に厚く尽くしておられる方と、遠くドライアドでも聞き及んでおります」
「もうよい」
「そこで、この場の不始末、我が体に今その罰を下す事によって不問にしていただけますようお願い申し上げます」
「何だと? その懐剣でお前を刺して罰としろと申すのか?」
「御意。ただし、このような事で元帥のお手を汚すわけには参りません。私が自らに罰を与えましょう」
「面白い。では耳でも削ぐと申すか?」
「耳ですか。それも良い考えですが、さすがに耳では罪に対して罰が軽すぎましょう。ここは一つ、我が右目をもって贖いとさせていただきたく」
トルマは一連のやりとりでエスカに対して興味を失っていった。
ドライアドで広大な領地を有する名家、ペトルウシュカ公爵家のゆかりの人間であることをわざわざ示した上で、およそ出来もしない代償の申し出をするなどということは、彼にとっては馬鹿にされた事と同義であった。
「小芝居はもうよいわ」
トルマはそう言うと、エスカから視線を外した。
「デュナンの口上など所詮は軽い口先の戯言」
吐き捨てるようにそう言うと、スリーズ少佐に声をかけた。
「シュクルよ、すぐに警護の近衛軍の将校を呼べ」
シュクル・スリーズ少将は即答はせず、トルマとエスカを見比べていた。彼はこの場をどう収めるかをずっと彼なりに考えていたのだが、彼の目にもエスカの言動はトルマが言うように全てが逆効果をもたらせているようにしかに映らなかった。
「これは心外でございます、閣下。シルフィードの元帥ともあろうお方が、このエスカ・ペトルウシュカの矜持を、こともあろうか小芝居とは」
「何?」
再びトルマの視線を手に入れたエスカは、無言で懐剣を手にすると鞘を抜いた。
「エスカ?」
ニームもここまでの事は当然ながら全てエスカ一流の芝居、いや計略だと思っていた。交渉に対する自信があるのはエスカの落ち着いた雰囲気でわかっていたので、敢えて何も口を挟まなかったのだ。
いや、正確には彼女はそれどころではなかった。それよりもなによりもずっとシュクルの懐剣に意識を奪われていたからである。
とはいえ、さすがにエスカが懐剣を鞘から抜いた時に、ニームは我に返った。そしてその大きな肩に手をかけようとしたが、しかしその伸ばした手が届く前に、エスカは行動を終えてしまっていた。
その行為はニームにも、いや、その場にいた誰も止める事が出来ないほどに速く、全くためらいがなかったのだ。
「エスカ!!」
ニームの悲鳴がその場を凍り付かせた。そして同じ空間を共有していたニーム以外の面々は、叫び声すら上げることなく硬直していた。
「バカものっ!何をしている!!」
ニームがぶつかるようにエスカに飛びついた。いや、エスカが持っていた懐剣に向かってむしゃぶりつくように突進し、自分でもびっくりするくらいの力でその手から懐剣を奪い取った。赤黒い血で濡れた、四連の薔薇のクレストが刻まれた懐剣を。
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