第七十六話 血の記憶 1/6

 ニームは懐剣を庭に投げ捨てると、右目を押さえてうずくまっているエスカを後ろから抱きかかえた。

「医者を、いや、それよりハイレーンを! 一番能力(ちから)のあるハイレーンを呼べ!」

 ニームの顔は自分でもわからないうちに涙でくしゃくしゃになっていた。だがそれでもトルマを睨み据えるように見上げながら、叫びながら懇願した。

「早くしてくれ。頼む! エスカが、エスカが死んでしまう!」

 それが限界であったのだろう。ニームはそれだけ叫ぶと、つかえて後はもう言葉が出てこず、大声を上げて泣き始めた。

「俺は大丈夫だ。心配するな、ニーム」

 エスカは叫び声一つ上げずに痛みを堪えていた。いや、声を出したくともそれが悲鳴になる事を恐れて、目だけではなく自分の口をも押さえていたのである。

 ニームが泣きじゃくり始めたあたりでようやく口を覆った手を離し、呼吸を整えた上でなんとか口を開く事ができたのだ。

「エスカ、エスカ、エスカ!」

 涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、それでも自分の名前を連呼して大声で泣き続けるニームの手の上に、血で汚れていない左手をそっと重ねると、エスカは右目を押さえたままでトルマに礼をした。


「なんということを……」

 トルマもようやく我に返った。

 トルマを見上げるエスカの顔面は蒼白、いや土気色になっていた。眼球を突いた時に目の周りも同時に傷つける事になったのであろうか、血がいまだに右手から伝って床に落ち続けていた。

「シュクル、何をしている。奥方が言った事を聞いていただろう? 医者とハイレーンを急いで呼べ」

 トルマはエスカから目を話さずそう言ったが、すぐにその言葉を翻した。

「いや、この中庭からなら、私の部屋が近い。医者とハイレーンはそこに呼べ。できるだけ周りに気取られぬようにな」

 シュクルは金縛りから解けたように大きな息をすると、うなずいてきびすを返そうとしたが、それをエスカが止めた。

「お待ち下さい」

「その状態で何を言う。一時も早く手当を」

「私は、いえ我々はまだ閣下からお返事を頂いておりません。私の覚悟、お見届け頂けたと存じます。なにとぞ」

 トルマは深く頭を下げたエスカに走り寄ると膝を突いてその肩を支え、顔を上げさせた。

 気丈に振る舞っているが、言葉に力がない。このままでいいはずがなかった。

「悪いようにはせぬ」

 そしてエスカに取り付いて震えながら泣き続けているニームに視線をやった。

「このままではあなたの奥方も心配だ。だから今はどうか、一刻も早く治療を受けては下さらぬか」

「ありがたきお言葉……」

「もうしゃべるでない。すぐ部屋に運ばせよう」

「自己紹介が遅れましたが、私はドライアド王国 陸軍少将、エスカ・ペトルウシュカと申します。以後、お見知り……おきを……」

「もうしゃべるな。目を閉じてじっとしておれ」

 トルマが敢えてそう言う必要はなかった。エスカの意識はそこで途絶えたのだ。

「エスカ!」

 エスカの様子がおかしいのに気づいたニームが力が抜けて前に倒れ込んだエスカを抱き起こそうとしたが、トルマにやんわりと肩をつかまれ、その行為を止められた。

「奥方様は今の将軍の顔は見ない方がいいでしょう。大丈夫、おそらく気を失っただけです」

 ニームはトルマのその言葉を聞くと、その場に座り込んで両手で顔を覆ってまた泣き始めた。




 目を覚ましたエスカが最初に目にしたのは、真っ青な顔をして赤くはれぼったい目で自分を心配そうに見つめているニームだった。

 その顔がエスカに安堵をもたらした。側にいてくれたという安心感と感謝と、そして……。それらの感情は言うまでもなくエスカにとってニームの存在がいかに大きくなっているかの証であった。おそらくはニーム以外の誰であっても、これほど心が穏やかで嬉しい気分にはならないだろうと思われた。


 顔の両脇だけを長く伸ばしているニームの特徴的な髪が乱れていた。結布が全て取り払われているからだろう。それが何を意味するのか、いやどういう状態なのかはエスカにはわからなかったが、自分をのぞき込むニームの頬には涙の跡とおぼしきものがいくつもあった。

 それを見て、エスカは一連の騒動と自分がなぜここで横になっているのかをようやく思い出した。

「エスカ!」

 エスカが目を覚ました事にいち早く気づいたニームは、一瞬で両の目に涙をあふれさせるとその首に飛びつくように抱きついて、またもや声を上げて泣き始めた。

「エスカ、エスカ」

 エスカはたまらずニームの肩を叩いた。

「痛えよっ、ニーム。怪我人にいきなり何しやがるっ」

 ニームはその言葉ではじかれたように飛び退くと、しかし今度は胸に顔ごと飛び込んできた。やる事は同じでエスカを抱きしめて泣いている。

「目が、目が……ここのハイレーンでは駄目だったのだ……」

 泣きながらも途切れ途切れにそう言って涙でひどい事になっている顔でエスカを見上げるニームの髪を、彼女の夫は大きな手でそっと撫でてやった。

「おれは大丈夫だ。心配ねえよ」

「大丈夫じゃない! あなたの右目は……」

「何、加減はしたから剣先は脳には行ってないぜ」

「そう言う事ではない!」

「左目があるからお前の顔はそれでちゃんと見分けられる。だからもう叫ぶな。そして泣くな。ああ、ほらほら。涙と鼻水でぐしゃぐしゃじゃねえか。それじゃせっかくの綺麗な顔が台無しだろ?」

 エスカがそう言うと、しゃくり上げるニームの声はかえって大きくなった。

「私の顔などどうでもいい。そんな事より、私のせいで……私が愚かだったせいで……ううう」

 ニームの声が聞こえたのだろう。隣の部屋に控えていたリンゼルリッヒが扉を叩いて入室の許可を請うた。エスカの許しを得たニームの護衛役である二人の賢者が部屋に入って目にしたものは、苦笑しているエスカと、その胸にとりついてベソをかいているニームであった。しかしエスカの顔が思いの外明るい様子だったので、二人は互いに少しだけほっとした表情で顔を見合わせた。

 エスカは自分に覆い被さるようにして泣き続けているニームの背中を片手でそっと抱いてやりながら、リンゼルリッヒとジナイーダに現状報告を求めた。

「いや、そう言う事ならあの場に居合わせた私の方から申し上げた方がよろしいでしょう」

 リンゼルリッヒとジナイーダの後方から知っている声がした。

 シュクルであった。

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