第七十五話 ニームの誤算 4/5
自分の足蹴もニームに届かなかった事でマルクはさらに腹を立てたのだろう。脇に飛ばされて呆然としているニームに向き直ると、懐から懐剣を取り出して鞘を抜き放った。
「そこへ直れ、小娘!この国王名代マルク・ペシカレフに働いた無礼、身をもって償うがいい」
エスカは懐剣を引き抜いたマルクに後ろから飛びかかった。
「お収めを、公爵!」
「まだ邪魔立てするか? これ以上はたとえお前でも許しはせぬぞ」
「剣をお収め下さい!」
フェルンもエスカにならってマルクに飛びかかり、ニームに近寄ろうとするマルクの動きを止めた。
怒りで訳のわからないうめき声を上げて懐剣を振りかざしたその手元をエスカが拳で付くと、ようやく懐剣がマルクから離れた。
金属音が鳴り、マルクの懐剣は床を滑ると、磁器のワイングラスの破片に当たって止まった。発光していたワイングラスの底は、その精霊陣が割れて破壊された際に発光を止めていた。
だが、ニームの結布と少佐の懐剣は光ったままであった。
「冷静におなりください、マルク様」
エスカはまだ暴れようとするマルクを押さえるのに必死だった。デュナンにしては大柄で腕力もあるエスカだが、思いの外マルクの力が強く、押さえるのに難儀をしていた。それほどマルクが逆上していたと言う事なのだが、その時のエスカはその場をどうやって納めるかに意識が行っており、つまりマルクに対してかなり油断があったと言わざるを得ない。
エスカにはマルクが懐剣を二本持っているという想像が働かなかったのだ。
マルクに回した腕が激痛を訴え、エスカは反射的にマルクの拘束を解いた。
エスカから解放されたマルクは、驚いた顔をしているフェルンをふりほどくと、そのままエスカに対して振り向き、手に持った二本目の懐剣を振り上げた。
「無礼者め、その小娘をかばい立てするなら、お前も同罪だ」
そう言うとそのまま懐剣を振り下ろそうとした。
その時、それまで呆然と立ち尽くしているだけと思っていたニームが何かをつぶやいた。それが何を意味するのか、エスカにはわかっていた。しかし、エスカにはニームのルーンを止める時間は与えられていなかった。
そもそも一連の出来事はごく短時間に行われ、その場をとりまとめるだけの手立てを企てる事ができるだけの余裕がその場の誰にもなかったのだ。それを考えるとニームがもっとも早く対処行動を起こす事が出来たのだと言う事も出来た。
「パラスディフィーリュ!」
エスカにはニームがそう口にしたように聞こえた。
そのルーンが何を引き起こすものなのかまではわからい。しかし、目の前で懐剣をふりかざしているマルクに向けられたものであろうと言う事は直感的にわかった。
「ぐうう」
うなり声を上げたマルクだが、振り上げた懐剣はそこから動かない。
いや……。
マルクの体全体がその場に固定されたように全く動く気配がなかった。自分の意志で留まっているのではない事は、今まさにエスカにむかって一歩踏み出しながら懐剣を振り下ろそうとして前向きにやや傾いた不自然な姿勢でわかる。
「三つ数えろ!この下郎」
ニームの目は怒りでつり上がっていた。手にはいつの間にか乳白色の石で出来た精杖が握られていた。既に腕輪を変化させていたのだ。
「数え終わった時、お前は自分のしでかした罪にふさわしい罰を知るだろう」
「やめろ、ニーム」
エスカは短くニームにそう叫ぶと、次にフェルンに向かってテラスに誰も入れぬように早口で命じた。
「止めるな、エスカ」
「いや、駄目だ。絶対に駄目だ。手を出すんじゃねえ」
「しかし、こいつのやる事はもはや常軌を逸している。あまつさえあなたの事を殺めようとしたのだぞ? 許されるわけがない」
「駄目だ。これは命令だ」
「エスカ……」
その間マルクはそのままの姿勢で唸っているだけであった。その目は何かを言いたそうにしていたが、それはエスカに対してなのか、付き人役のフェルンに対してなのか、はたまた自分に麻痺のルーンをかけたニームに対してなのかは誰にもわからなかった。なぜなら顔の向きは正面に固定されていたからだ。
「さすがにこれは見過ごせませんな」
トルマが低い声で一同にそう告げた。
事の成り行きを見守っていたというよりは、口を挟む時機を逸していたと言っていた方がいいのだろう。
だがバードの少女がルーンを行使しさらにこの後、別のルーンで人を傷つけようとしていると知れば、強引にでも介入して事態を収拾するしかない。彼にはその権利があり、その場を考えるならば彼がそれをやらねばならなかった。
「まず、王宮の敷地内でルーンの使用が禁じられているのはご存じのはず」
ニームに向けられた言葉だった。
「精杖を戻せ、ニーム」
「うう……」
ニームは悔しそうな表情を隠そうともせず、唇を噛んだ。
「カイエン元帥の言うとおりにしろ。頭を冷やせ、これは国家間の問題になるんだぞ!」
一際大きなエスカの叱咤を受けて、ニームは小さな肩を落とすと何かを呟いて精杖を腕輪に戻した。
エスカにしては見慣れた光景だったが、その場に居たそれ以外の人間にしてみれば、高位ルーナーしか使えない精杖変化ルーンはさすがに珍しいものだった。
「まあ、この男はしばらくこのままでもよいでしょう。それともこれは肉体的な負荷があるルーンですかな?」
トルマはニームの行動を止めた。彼女は掌をマルクに向け、ルーンの解除を行おうとしていたのだ。トルマとしても衝動的な行動に出そうな名代というやっかいな肩書きを持つマルクには、事の収拾のめどが立つまで出来ればおとなしくしていて欲しかったのだ。
彼は麻痺のルーンは見慣れていたので、肉体的な負担が無いものであろう事はわかっていた。だが、体が斜めの状態で重力に反したまま倒れず固定されている事が不思議だった。それは初めて見る光景だったのだ。
(よほど強いルーナーか、はたまた別種のルーンか……)
事が重大な事はもちろんだが、トルマはそれよりもドライアドのバードと名乗るアルヴィンの血が混じった少女に興味が沸いていた。ニームが幼いながらも理知的で聡明な事はトルマには顔つきですぐにわかった。しかも掛け値無しに高位ルーナーのようなのだ。
その少女をして自らの立場を顧みることなく感情をむき出しにさせる程の魅力が彼女の夫にはあるという事なのだろうか?
(いや……)
それは若さゆえであろうとトルマは考えた。衝動は若者の武器であり、最大の欠点にもなる。ニームはその武器を間違って使ってしまったのだと。
トルマの言葉を受けてニームは右手を下ろした。もちろん、そこにはほっとした表情が浮かんでいた。
「さて、困った事態になりましたな」
トルマはエスカに向かってそう言った。その声色には他意はなく、まさしくトルマ自身が困惑の極みに立っている事を表していた。
エスカはそこに一縷の望みを見いだした。この醜態をどう始末するのかを模索しているトルマに、よい落とし所を提示できる可能性があると言う事である。
王宮の一部、それも大葬の前夜の宴の席で懐剣の鞘を抜き、それをつかって斬りかかろうとしたら一体どうなるのか?
エスカはドライアドでもしそうなったらどういう罰が下されるかを知っていた。
もちろん、裁判すら行われずに死罪である。名誉を何より重んじるシルフィード王国もそれは同様であろう。縛り首相当であるドライアドよりも死罪の内容がより重い可能性すらある。打ち首か、肉食の猛獣による公開獣殺か……。
話をややこしくしているのは相手が国王名代という立場にある人物だと言う事である。単純に死罪を宣告できるほど単純な話ではないはずだった。それこそ開戦の合図にしかならないであろう。
ニームはどうか?
トルマの言うとおり、王宮内でルーナーが許可を得ずルーンを唱える事は剣士が剣を鞘から抜く事と同義である。
そしてニームには国王名代というややこしい肩書きはない。
国王名代の付き添いであり護衛官でもあるエスカの随行員としての立場でしかないのである。
つまり、ニームの処罰については間違い無く死罪が適用されるはずだった。
エスカは唇を噛んでいた。
精杖を取り出しただけならばまだ言い訳は立ったかもしれない。しかし詠唱が異常に早いニームの特異性が今回は裏目に出た。気づいた時には詠唱が終わっているのである。普通のルーナーであれば詠唱途中、前文の段階で解除させる事が可能だった。前文の段階であれば、いわゆる精霊逆行現象は起きないからである。
唯一可能性があるとするならば……。
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