第七十五話 ニームの誤算 3/5
シルフィード王国の元帥と言えば、国策の中枢たる存在である。マルクはその立場ある人間に対して人種を愚弄する言葉を吐いたようなものである。
マルクがペシカレフ公爵個人としてこの場に居たのであれば、それは酔った上での戯れ言として個人的な処罰を受ければいい事であろう。しかし今のマルクは国王名代である。
それは既に晩餐が始まる前に全体の前で紹介されていた事実なのだ。
つまり、トルマがマルクの立場を知らないはずはなかった。
「元帥閣下」
この一大事に、エスカはすかさず声をかけたがトルマはそれを制した。
「この場ではお控え願おう、美しい姫のご主人殿」
「しかし」
「お黙りあれ!」
食い下がろうとしたエスカはしかし、トルマの一喝により発言を禁じられた格好になった。
さすがのマルクも自分がしでかした事の重大さに気づいたのであろう。震え出していた自分を落ち着かせようと、手に持ったままの白い磁器のワイングラスに入っていた赤い液体を一気に飲み干した。
「まさか、あれは……」
ニームは思わずそう呟くと唇を噛んだ。
トルマが手に持っていた磁器のグラスはシルフィード側が客のために用意したものではなかった。その白い磁器には透かし焼きの技法で水晶が埋め込まれており、それは大鷲のクレストを形どっていたのである。
大鷲のクレストは誰でも知っているファルナ家のクレスト、つまりファルナ朝ドライアド王国の紋章と言う事である。
そのワイングラスはニームがあらかじめ用意していたものだった。もちろん、マルク用にである。
その磁器のワイングラスのうたい文句は「気持ちが落ち着き、よりいっそう気品に磨きがかかる効用がある特別のもの」 すなわちそのグラスに注いだワインを飲む事によってそういう効用が得られると伝えたものだった。
大鷲のクレスト入りと言うだけで特別なものである事は十分伝わるが、そのうたい文句が気に入ったマルクは、食事時には欠かさずそのワイングラスを使っていた。いわばお気に入りだったのだ。
ニームがそのワイングラスを見て驚いたのにはもちろん訳がある。まずはこのような席でわざわざ持参のワイングラスに酒を注がせていたマルクの常軌を逸した行儀の悪さにである。信じられない行為といっていい。
しかし彼女の本当の誤算は、その場にいた全員にそれが晒された後に起こった。
「おやおや。アルヴのにおいを消すおまじないですかな?」
ワイングラスの底が、トルマとエスカ、それにニームに向けられていた。そこには定規で描いたように美しい図形の組み合わせが黒々と描かれていた。
誰が見てもすぐにわかる。それは精霊陣もしくはルーンサークルと呼ばれるものだった。
「え?」
マルクはトルマの指摘に慌ててワイングラスの底を確認した。
「こ、これは何だ?」
(消し忘れたのか? )
(ワインに反応して発動する精霊陣だ。毎回こっそり描くのが面倒なのであらかじめ仕込んでおいたのだが、裏目に出た)
さすがにマルクとて精霊陣とニームとの関連は真っ先に思いつくだろう。だが、この時点ではまだエスカは精霊陣とニームの関係についてしらを切る腹づもりにしていた。
だが、そこへ現れたもう一人の人物がその思惑を根底から覆す事になった。
「これは、お取り込み中でございますか?」
妙にゆっくりとした口調で現れたのは、アルヴの将校だった。
一同の視線は一斉に声の主に向かった。
テラスへ降りる階段の上に立ち、会釈をする人物は一目で軍人とわかった。その服装ゆえである。
エスカはその黒い軍服が王国軍、それも海軍のものである事を知っていた。
「私の心の声が『まずいぞ、ズラかれ』と警鐘を鳴らしているのですが、帰ってもよろしいですか、閣下?」
軍人はのんびりした口調でトルマにそう声をかけた。
「馬鹿な事を申すでない」
トルマはあからさまに怒気を含んだ声で不愉快そうにそう怒鳴った。
「ふむ。まあいいでしょう。それより私は早く来すぎましたか? それとも遅きに失しましたか?」
アルヴの年齢は計りかねたが、その若い声からエスカはその将校がそう自分と変わらないであろうと推測した。
怒鳴る元帥などものともせずに間延びしたような声でそうトルマに尋ねる様子を見ても、その将校がテラスでの様子を事前に観察しており、現れる機会を探っていたのであろうとエスカは確信していた。同時に先ほど追い払った側近が二人とも近衛軍の軍服であった事をこの時になって思い出した。
つまりそれは海軍所属のこの佐官が、トルマに呼ばれてやって来た事を意味していた。腹心、そこまで行かずとも自らが信頼する部下を敢えて呼んだのであろう。
トルマは近衛軍の補佐官をよしとしなかったのである。
「いや、丁度良いところに来てくれた。少し面倒な事になりそうだったのでな」
「私も閣下にお伝えせねばならぬ重要な案件がありましたので早々にお会いしたいと思っておりました。何しろ私はこの宴席に呼ばれておりませんからね。どちらにしろ大葬の前にお会いできたのは幸運です」
そういうアルヴの軍人に怪訝な顔を向けたトルマだが、それよりもこの場の収集を計る事が最優先であった。
「重要な案件はここにある」
トルマはそう言ってそのアルヴにテラスに降りるように命じた。
――それが契機となった。
テラスに一歩踏み出した将校の腰のあたりがまず光った。それは喪の印としてぶら下げていた懐剣で、その柄の部分が赤く輝いていた。
だが、その場の異変はそれだけでは収まらなかった。
マルクが手にしたままの磁器のワイングラスの底が同様に、いやほぼ同時に赤く光り出していた。そして……。
そして、エスカの隣にいる小柄な少女の髪をまとめている結布が同じように赤い光を放っていたのだ。
「お前か!」
その異変をみて最初に声を上げ行動を起こしたのはマルクだった。
「お前が何か仕込んでいたのだな?」
その声と同時にマルクはワイングラスを持った手を振り上げた。
「この、薄汚いバードの小娘が!」
言うが早いかマルクは振り上げたワイングラスをニームめがけて投げた。
その場で起きた現象に、実は一番驚いていたのはニームだった。
彼女は目を大きく見開いて、青年佐官の腰にある懐剣の光を凝視していた。不幸な事にマルクの行動は彼女には認識されておらず、投げつけられたワイングラスは正確に呆然と立っているニームの額に向かっていた。
マルクが振りかぶった時にそれを予見していたエスカは、ニームにグラスがぶつかる前に間一髪、自らの体で覆う事でかばう事が出来た。
ワイングラスはエスカの体にあたるとそのまま床に落ち、乾いた音をたてていくつかの破片に姿を変えた。
「エスカ?」
我に返ったニームは、結布を光らせたままで自分を助けてくれた男の顔を見上げた。
「かばい立てする気か、ペトルウシュカ男爵!」
ワイングラスがニームに当たらなかった事で、マルクは逆上していた。
勢いを付けてエスカの前まで来ると、そのままエスカが抱きかかえたニームめがけて足を上げたのだ。
エスカはニームを優しく突き放すと、自分はよけずにマルクの足蹴をそのまま受けて、後ろに倒れ込んだ。
「なりません、公爵」
ようやく我に返ったフェルンの制止の言葉は、しかしマルクの耳にはとどいていなかった。
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