第七十一話 ヴィーダ 5/5
エルデはかまわず、おそらくは自分自身がこの場で使え、最大の効果を期待できる破壊ルーンを唱えたのだ。《淡黄の扇》とエイル・エイミイ、そして扉の向こう側にいるはずの、キアーナ・ペンドルトンをも巻き込んで。
背中に受ける熱圧で吹き飛ばされながらも、エイルの耳には、爆炎ルーンに続けてエルデが唱えた短いルーンが届いていた。
「ヴィーダ!」
それはエイルがその系統すら推測できない、初めて耳にする未知のルーンだった。
同時にエイルは自分の体が何者かに拘束されるのを感じていた。爆風か熱圧で体が浮き、まさに吹き飛ばされようとしていたその瞬間に何かが体に巻き付き、強い力で強引に引っ張られた。
一連の出来事は、ほんの短時間に生じたものだった。おそらく瞬きにすると一、二度というところだろう。
後ろに引っ張られ、その勢いで尻餅をついて倒れ込んだエイルの目に映ったそこは、既に「部屋」の様相を呈していなかった。
(寒い)
最初に感じたのは目から入る感覚ではなく、肌で感じる気温の変化だった。今まで灼熱を浴びせられていたのだ。どんな気温であっても相対的に「寒い」事には違いはない。だがそういう比較ではなく、絶対的に温度が低いのだ。しかも肌に感じるのは空気の動きである。
風?
そう、まるでそれは真冬のハイデルーヴェンの夜の通りのような……。
「ええ?」
エルデが破壊系のルーンを唱えた事は承知していた。
しかし自分のいた部屋がただの空き地になっているとは、さすがにエイルにも想像できなかった。
エイルの置かれた状況を正しく表現するならば、そこは空き地ではなかった。建屋を全て取り払い、解体工事がそろそろ終了する直前と言った風情の床の上だったのだ。
エルデの爆炎ルーンは彼らがいた部屋どころか、建物、すなわちハイデルーヴェン城のほぼ全体を吹き飛ばしていた。何をどうしたらそういう事になるのかがわからないが、熱を伴う爆圧が、頑強で巨大な城を跡形もなく吹き飛ばしたのは事実である。
当たりを見渡したところ、とりあえず炎は一切上がっていない。緊急避難の必要はなさそうだった。
夜明け前でまだ暗い中、エイルが周りの様子を確認できたのは、妖剣ゼプスが放つ黄色い光がまだ消えておらず……いや、ランディに斬りかかった時よりもさらに光の強さは増しているようだった……加えてエイルの頭上に強めの赤い光源が一つあったためだ。
その時になってようやく、エルデは自分の体に蔦のようなものが巻き付いているのを確認した。
記憶をたどれば、確かその蔦によって体が確保・固定され、爆風に体を持って行かれずに済んだのだ。
エイルを確保したのはもちろんエルデ・ヴァイスだった。
尻餅をついたままの体勢で、エイルは隣のエルデを見上げた。そこには三眼のエルデ・ヴァイスが立ち尽くしていた。
エルデの手には精杖が握られていたが、よく見ると蔦はその精杖から生えているようだった。そして頭頂部にはひときわ大きなスフィアが一つ浮かび出て、そこから真っ赤な光が放たれ、当たりを照らしていたのだ。
「そうだ、キアーナは?」
ランディの気配がない事を確認したエイルはようやくキアーナの事を思い出し、慌てて立ち上がった。
「大丈夫や」
エルデがそう言うと、エイルを拘束していた蔦がまるで自ら意思を持つ生き物のように動いた。蔦はエイルを解放するとエルデの周りで静止した。その様はまるで次の命令を待つ異形の従者のようであった。
大丈夫だと告げたエルデの視線の先をエイルは追った。
見ればすぐ近くでキアーナは倒れ込んでいた。
「心配ない。気を失ってるだけや」
エルデはそう言ったが、ピクリとも動かないキアーナを見ると、エイルには不安がこみ上げてきた。
「本当に気を失っているだけなのか?」
その質問には「建物のこの有様を見ては、大丈夫だと言われてもハイそうですかとは思えない」という意味が込められていた。
エルデも当然それを汲んだのであろう。すぐにこう続けた。
「正気やったのを、ウチがわざわざ気絶させたんやから間違いない」
「気絶させたって……」
「こんな状況で下手に意識があっても、こっちとしては色々と面倒やさかいな」
エルデの声に冗談じみたものを感じなかったエイルは、近場だけではなく付近の様子がぼんやりとではあるが把握できる程度に目が慣れてきていた。
ランディはおそらく今の熱と爆発で灰化して消滅したに違いない。少なくとも近くに気配がない事はエイル以上に敏感なエルデなら把握しているはずである。
だが三眼を閉じず、険しい表情で少し向こう側を見つめたままのエルデの様子にはただならぬものがあった。
(なるほど)
そしてその理由はエイルにもすぐにわかった。
相当離れてはいるが、二人、いや三人を囲むように多くの人間がいたのだ。
そして彼らがエイル達の味方である可能性はきわめて低かった。
夜明け前のこの時間である。町はずれとも言える古城の周りに一般の人間が大勢いるとは思えない。
ならば考えられるのは、ランディの護衛として付き従ってきた彼の部下達の存在である。
付近で待機していたとすれば、建物の崩壊に伴ってそれなりの被害が出ていることは容易に想像がつく。
彼らもそのうち目が慣れるだろう。そして爆心地付近に平然とした姿で立つ二人の人影が、ともにランディ・アルオマーン新教会府長の姿ではない事を知った場合、彼らは次にどのような行動をとるのか……。
そんなことを考えているうちに、エイルは自分達に退路がないことに気づいた。全方位に友好的とは思えない気配が漂っていた。エイルとエルデは完全に包囲されていたのである。
「エルデ……」
「さて、どないしたもんかな」
もとよりエルデはエイルよりも先に状況を把握していたのだ。だからこそ三眼のまま緊張を解かず、精杖の一部を変化させた触手のような蔦をすぐに動かせるように待機させていたのだろう。
「ランディの部下か?」
「それはわからへんけど、高位のルーナーがいるのは確かやな。しかもご丁寧に前後左右、くまなく囲てくれてるわ」
「何だって?」
エルデは唇の端を少しだけ持ち上げて笑って見せた。
だが、それはいつものエルデの、あの余裕のある笑いではない事は確かだった。
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